2011年11月30日水曜日

小さな町のチャーリー~Danny O'Keefe


Artist:ダニー・オキーフ
Song:Good Time Charlie Got The Blues
Album: O'Keefe

ダニー・オキーフと言えば、まず思い浮かべるのが1972年のヒット曲「グッド・タイム・チャーリーズ・ガット・ザ・ブルース」。イントロのギターが印象的です。所謂、”クリシェ”という手法。同じコードが連続するとき、基本のコードは変えずにそのコードの構成音を変化させひとつのメロディーラインを構成させる技法ですね。それに乗っかるメロディー、鼻にかかったヴォーカルも長閑で、ゆったりと時が過ぎていきます。

この曲に出会ったのは、高校生の時。確かワーナー・レコードの何十周年記念で1973年にリリースされた「ホット・メニュー`73~ベスト・オブ・ワーナー/リプリーズ/アトランティック~」というサンプル・レコードでした。2枚組で980円とLP一枚が2000円ぐらいだった当時としては破格の値段で、お金のない高校生としては、とてもありがたいレコードでした。内容はワーナー/リプリーズ/アトランティックレーベルに所属するアーティストのアルバムとその中から1曲を紹介し、それぞれに解説までついていました。収録曲を挙げますと

A-1.アリスは大統領(アリス・クーパー)
A-2.想い出のサマー・ブリーズ(シールズ&クロフツ)
A-3.リッスン・トゥ・ザ・ミュージック(ドゥービー・ブラザーズ)
A-4.ビューティフル(ゴードン・ライトフット)
A-5.ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート(ライ・クーダー)
A-6.ニューオリンズの町(アーロ・ガスリー)
A-7.目を閉じてごらん(ジェイムス・テイラー)
B-1.ナイト・クラブ(タワー・オブ・パワー)
B-2.プレイング・イン・ザ・バンド(グレイトフル・デッド)
B-3.時はもう無駄に出来ない(オールマン・ブラザーズ・バンド)
B-4.ワイルド・ナイト(ヴァン・モリソン)
B-5.ミート・ボール(ザ・セクション)
B-6.モモトンボ(マロ)
B-7.ブラック・ナイト(ディープ・パープル)
C-1.ホワット・キャン・アイ・ドゥ(レッド・ツェッペリン)
C-2.キープ・ザ・フェイス(ブラック・オーク・アーカンソー)
C-3.スタッカ・リー(ドクター・ジョン)
C-4.いつもあなたと(スピナーズ)
C-5.ホームワーク(J.ガイルズ・バンド)
C-6.ワイルド・ライク・ワイン(ラマタム)
C-7.ラッキー・マン(エマーソン・レイク&パーマー)
D-1.コロラド(マナサス)
D-2.ストップ・アンド・スタート(ジョナサン・エドワーズ)
D-3.幸せを求めて(ユーグ・オーフレー)
D-4.サム・ストーン(ジョン・プライン)
D-5.グッド・タイム・チャーリー(ダニー・オキーフ)
D-6.リトル・ゲットー・ボーイ(ダニー・ハサウェイ)
D-7.愛は面影の中に(ロバータ・フラック)

全28曲。ある意味、70年代の洋楽の世界を拡げてくれた。バイブル的なアルバムでもありました。このアルバムを切っ掛けに、音楽的興味がどんどん広がっていったように思います。当時、このアルバムを買った方も沢山いらっしゃるのでしょうね、たぶん同じ懐かしさをお持ちだと思います。
フォーキーなSSWが好みだったので、特にA面とD面にはよく針を落としていました。

本題からそれてしまいましたね。ダニー・オキーフは1943年にワシントン州ウィナッチで生まれました。ミネソタ州セントポールズへ一家で移り住むようになり、1960年半ばに音楽活動を始めました。やがてフォーク・クラブなどで歌いながら、アメリカ各地を放浪の末、シアトルへとたどり着きました。この地でオートバイ事故に遭い、療養している間に曲作りを始めます。ロスアンジェルスに移り、キャリオーブに参加し一員として、1966年にローカルレーベルから初アルバムをリリースしています。
その後バッファロー・スプリングフィールドのマネージャー通じてアトランティック・レコードのアーメット・アーティガンのオーディションを受け合格。1971年にコティリオン・レーベルからデビュー・アルバムを出し、翌年にリリースされたのがこのアルバムでした。73年に、この曲がヒット、後にエルビス・プレスリーレオン・ラッセルアール・クルーなどがカヴァーしています。
派手さはありませんが、しっかりとしたメロディーを書く人で、どちらかというとミュージシャン好みのミュージシャンです。ジャクソン・ブラウンは"The Road"をレオ・セイヤは"Magdalena"、ジュディ・コリンズは"Angel Spread Your Wings"など彼の作品をカヴァーしています。

”Good Time Charlie Got The Blues ”の歌詞についてですが、舞台はアメリカの小さな田舎町。この町には雨が多く、これといって変化のない毎日に人々は嫌気がさし、人生の勝ち組をめざしみんな都会へ出ていきます。
主人公の男は、この町でも有名な遊び人。女房にも愛想を尽かされ出て行かれる始末。言ってみりゃ最初から人生の負け組。そりゃ、自分でもわかってるんだけどよ、どうしようもねぇだなこれが・・。
さびれていく町ではあるけど、ここは自分にとってやっとみつけた安住の地、この町にいるのは人生を無駄に過ごすだけだと顔見知りの奴等はいい、自分でもここに居るかぎり、人生の勝ち組なんてとてもなれないと、気持ちも憂鬱になるけど、この町を捨てていくことができない。そんな内容です。
この”Good Time Charlie”とは主人公の名前とも考えられますが、慣用句としてちゃんと意味があり、放蕩者、遊び人、道楽者と言った意味があるようです。どちらかというと否定的な意味でなく、「一時は羽振りもよかった(Good Time)けど今はダメな奴、でもあいつ、なんか憎めないだなぁ。」といったニュアンスを持っているようです。

特に印象的なサビの部分

Some gotta win, some gotta lose
Good time Charlie's got the blues
Good time Charlie's got the blues
勝つヤツもいるし 負けるヤツもいる。
浮き沈みのあったあいつも そりゃブルーにもなるさ。
遊び人の楽天家のチャーリーも 憂鬱になるだろうさ。

なんて感じでしょうかね。Charlieとは名前でもあるのですが、一般男性の総称でもあるようで、「小さな町に住むチャーリー」は主人公自身ともとれるますし、自分に似た男ともとれます。

居酒屋で「チャランポランで悩みがないように見えるオレでもさ、ちょっと憂鬱になることだってあるんだぜ。」こんな事、クダまきながら言った覚えもあるような・・・。
そう思うとちょっと男の哀愁さえ漂ってきます。

Good time Charlie's got the blues。憂鬱になることがあっても、エンディングのように口笛ふいて、陽気に、酒でも一杯やりますかね。

(”Good time Charlie's got the blues" by Danny O'Keefe,)

2011年11月18日金曜日

百万語の言葉より~Jimmy Webb


Artist:ジミー・ウェッブ
Song:Didn't We
Album:Ten Easy Pieces

ビートでジャンプ(Up Up and Away)"という曲をご存じでしょうか。フィフス・ディメンションで大ヒットしたこの曲は、1967年のグラミー賞の最優秀レコード賞、最優秀コンテポラリー・シングル賞、最優秀ポップ・グループ賞の3部門を受賞し、また最優秀男性ボーカルにはグレン・キャンベルの”By the Time I Get to Phoenix(恋はフェニックス)が選ばれています。この2曲を提供したのが当時、弱冠まだ21才だったジミー・ウェッブ(Jim Webbとも表記される)です。また、次年度の1968年のグラミー賞ではグレンキャベルのアルバム「By the Time I Get to Phoenix(恋はフェニックス)」が最優秀アルバム賞、リチャード・ハリスに書いた”“MacArthur Park” では最優秀歌曲編曲賞を受賞しており、2年連続してグラミー賞を受賞するという快挙をやってのけています。
バート・バカラックを初め、ほとんどのメロディー・メイカーが作曲と作詞を分業しているのに対し、ジミー・ウェッブはほとんど、一人で詞と曲を書き、アレンジまでこなしています。いわゆるマルチの才能をもった特異なアーティストなんです。バカラックの凝ったメロディーラインに比べ、ジミーの曲はコードの流れに沿った自然なメロディーという印象を受けます。弾き語りのヴァージョンを聞くと判りますが、あまり楽器を加えないシンプルな構成の方が、かえって歌詞とメロディーの輪郭がくっきりして、より深く胸を打ちます。

Jimmyはオクラホマ州のエルク・シティーという小さな町に生まれました。父親がバプティスト派の牧師だったため、音楽的にビートルズなどは御法度のかなり厳格な環境で育ったようです。母の薦めもあり6才からピアノを学び、12才でドビュシーやラベルを弾きこなしていました。13才から詩を書き始めそれに曲をつけるようになります。
ちなみにアート・ガーファンクルのアルバム「Water Mark」(Jimmyの作品集みたいなアルバムです。)に収録されている”Someone Else"という曲はなんと、15才の時に作った曲です!
18才の時一家は南カリフォルニアへ、そして単身ロスへ移りプロのソングライターを目指します。モータウン傘下のジョペット・ミュージックへ就職。週休40ドルでスタジオの雑用をしながら安アパートで毛布にくるまれながら来る日も来る日も曲を書き続けていたそうで、初めてシュープリームスに”My Chritmas Tree"が取り上げられソングライターとしてデビューしています。モータウン時代40曲もの曲を書き上げましたが、結局、芽が出ることはありませんでした。 
しかし20才の時に転機が訪れます、歌手、ジョニー・リヴァースと出会い、この出会いがその後のジミーの人生を大きく変えることになります。ジョニーはジミーの作品をいたく気に入り、”By the Time I Get to Phoenix(恋はフェニックス)”をアルバム「Changes」に採用することにしました。(この曲は実はジョニー・リヴァースが先に発表していたんですね。)この曲が数年後グラミー賞を獲得するのですから、人生における出会いとはほんとうに不思議なものです。そしてジョニーの紹介でフィフス・ディメンションに曲を提供することとなり、このことが成功への道を切り開くきっかけとなっていったのでした。
その後は冒頭に紹介しましたとおり、一躍、時の人なり数々の名曲を色々なアーティストに提供しながら、自らもSSWとしてソロ・アルバムをリリースしていきます。おもなアルバムは以下のとおりです。

Jim Webb sings Jim Webb (1968)
Words and Music (1970)
And So: On (1971)
Letters (1972)
Land's End (1974)
El Mirage (1977)
Angel Heart (1982)
Suspending Disbelief (1993)
Ten Easy Pieces (1996)
Twilight of the Renegades (2005)
Live and at Large (2007)
Just Across the River (2010)

曲についてはここに列挙できないくらい多くの名曲を残しています。興味のある方はここをご覧下さい→ 

残念なことの他人に書いた曲は大ヒットするのに、自分のアルバムの方はセールス的にも芳しくありません。おそらく、作った時の感情を大事にするあまり、凝ったアレンジなどを極力避け、このこだわりが、名前同様、地味(Jimmy)な印象を与えていたためかもしれません。
今回取り上げたアルバム「Ten Easy Pieces」もヒット曲をセルフ・カヴァーしたもので、ピアノの弾き語りというシンプルな形になっています。個人的にはこの静かな、しっとりとしたアレンジが気に入っています。特に”Didn't We”は美しいメロディーを持っている大好きな曲です。
最近リリースされた「Just Across the River」も同様のセルフ・カヴァー集で、こちらはビリー・ジョエル、ウィリー・ネルソン、ジャクソン・ブラウン、グレン・キャベル、マーク・ノップラー、J.Dサウザー、リンダ・ロンシュタットなど豪華なゲストとのデュエットが楽しめる好盤です。
アメリカという国を理解したいなら small townを訪れてみるといい、と何かの本で読んだことがあります。そこには時代に翻弄されながらも、自分の生き方を頑固に守り、慎ましく生きている普通のアメリカ人の姿があり、アメリカの良心はそんな小さな町に支えられているからだと。
ジミーの音楽には、small townに息づく、アメリカの良心が残されているような気がします。そこで語られる美しくけれど哀しい物語には、人生を生きてきた確かな証のようなものを感じずにはいられません。
Wichita Lineman”では荒涼たるウィチタで休まず修繕工事をしながら、別れてしまった恋人への想いを電話線にのせるという、電話の架線工事人が主人公ですし、
Galveton"ではベトナムの戦場から生まれ故郷とそこに残してきた恋人のことを想い、こんな所では死ねないと語る若者のことを歌っています。
沢山の言葉を費やすよりも、どんなに正論をならべるよりも、ある歌の方がより深く胸をうつことがある。Jimmy Webbを聞く度にそんなことを思います。

(15才の時に作った曲。すごいとしかいいようがありません。”Someone Else"by Art Gerfunkel )

("Adios"by Linda Ronstadt。Brian Wilsonもコーラスで参加。90年代、JimmyもBrianも低迷の時期でした。じゃ〜とばかりに、二人に手をさしのべてくれた、リンダ姉御に感謝。)

(今回取り上げた曲。人生には勝つときもあれば負ける時もある。負けてもまたチャンスはまたやってくるよと優しく歌いかける、私の人生の応援歌です。”Didn't We”by Jimmy Webb)

2011年11月1日火曜日

贖罪~Judee Sill


Artist:ジュディ・シル
Song:Kiss
Album:Heart Food


 うつむきがちな顔がどこか憂いを含んでいて、ちょっと謎めいていて神秘的。
このアルバムをレコード屋で見つけたとき、そんな印象をもった。おさげ髪のせいか、まだ高校生だった私とあまり年齢が変わらないように思え、オーケストラの指揮をしている姿に「早熟で才能あふれるアーティスト」というイメージがして、好きだったローラ・ニーロと重なった。そして日本盤の帯に「グラハム・ナッシュがプロデュース・・云々」というコピーを見つけ、迷わずレコード抜き取り、レジへ向かった。ジュディ・シルとの出会いは確か72~73年頃だったと思う。

これは後に知ることになったが、ローラ・ニーロの敏腕マネージャーだったデビッド・ゲフィンがNYを離れ、自分の理想とするレコードレーベル”アサイラム(Asylum)をカリフォルニアで立ち上げ、初めてリリースした第1号アーティストがジュディ・シルだった。このレコードにローラ・ニーロの匂いを感じたのは偶然ではなかったのだ。
透明感のある地味ではあるが、聞く度にじわじわ染みてくるヴォーカル。そしていくつかの曲のメロディーとコーラスには中世の教会音楽のような重厚さと、荘厳さがあった。そのわけは彼女の波瀾万丈の人生にあることをライナーで読んだ気がする、というのも、何度か引っ越しを繰り返すうちこのレコードが行方不明になってしまった。お気に入りだったアルバム。ジャケットと内容の素晴らしさだけが心に残ってはいたが、30年の間に、いつしか、ジュディ・シルという名前さえも思い出せなくなっていた。

ジュディ・シルは1944年10月7日カリフォルニア州ロスアンジェルスに生まれた。父母が経営するバーに置いてあったピアノに幼き頃から親しみ、その後もウクレレやギターの演奏を覚えて作曲を始めるようになる。やがて父が亡くなり、母は「トムとジェリー」の制作をしていたアニメーターと再婚するが、その養父が極度のアルコール中毒で、ジュディは虐待をうけるようになる。そんな日々に嫌気をさしたジュディは両親に反抗的な態度を取るようになり、10代で家出。次第に犯罪とドラッグに手を染めて行く。そしてついに、年上の恋人とガスリン・スタンドを襲い、感化院送りとなる。
そこで、教会音楽と出会い、オルガンを弾くようになる、一から音楽理論を学び、バッハの音楽に惹かれていく。彼女の曲の賛美歌のような穏やかで、美しい旋律は、この頃に学んだことが色濃く反映されている。
その後、ソング・ライティング・コンテストで優勝。音楽の才能を開花させて行く。地元のバーで歌い始めこのままシンガー・ソング・ライターへの道へと進むかに思われたのも束の間、またもドラッグの地獄へとはまってしまい、ジャンキーとなりクスリを買うために身を売ったり、不渡りの手形詐欺に手を染める。再び逮捕されたジュディはやっと中毒症状から脱する。そうした荒んだ体験の癒しとして宗教にますます惹かれるようになる。この頃には母と兄が他界し、結婚と離婚を経験するなど、彼女に取って人生の不幸が一気に押し寄せていたかのような時期だった。
音楽活動を再開したジュディは”Lady-O”という曲を書き上げ、タートルズのベーシストであるジム・ポンスがジュディと友人だったことで、この曲がタートルズに取り上げられ、その名前が徐々に知られるようになる、この頃、グラハム・ナッシュと出会い、クロスビー&ナッシュのツアーで前座をつとめるまでになり。めでたくデビッド・ゲフィンが立ち上げた、アサイラム・レコードと契約することになる。また、一時期、J.D.サウザーと恋に落ち、それを元に書いた”Jesus Was A Crossmaker"をグラハム・ナッシュのプロデュースでシングルとしてリリースする。
1971年、ファーストアルバム「Judee Sill」をアサイラムの第一号レコードとしてリリース。フォークと宗教音楽が合体したかのようなこのアルバムは、評論家からは絶賛されたが、一般的なセールスには結びつかなかった。彼女は、さらに壮大なオーケストラの音などを加え、長い時間をかけて、制作されたのがセカンド・アルバム「Heart Food」だった。この発売を待つ間に、ジュディがインタビューで、デヴィッド・ゲフィンがホモセクシャルであることを暴露してしまい。ゲフィンは激怒、『Heart Food』に対する宣伝を行われず、1973年にリリースされた本作はデビュー作を下回る売上となってしまった。彼はその後ゲイであることを公言するが、その頃まだ同性愛が受け入れられる社会ではなかった。
彼女は自費でサード・アルバムを制作するが、アサイラムとの契約は切られ、結局、この作品はお蔵入りとなる。後に没後25年経ってから『Dreams Come True』として発売。
さらに、不幸は彼女を襲う。ジュディは交通事故に遭い、脊椎を損傷、手術をうけるも。後々まで痛みに苦しむことになり、その痛みを和らげる為に、再びドラッグ手を出してしまう。その後5年近く彼女の行方は知れなかった。1979年。ドラッグの過剰摂取によりジュディ・シル、他界。彼女の人生の終わりを知ったのは、誰も気づかない短いニュースだった。

皮肉なことに、没後、24年を経た、2003年に少量生産でCD化された彼女の2枚のアルバムがあっという間に売り切れた頃から彼女は再評価され始めた。幻だったサードアルバム「Dreams Come True」や彼女の数少ないライヴ演奏の模様を収めた「Live in London: The BBC Recordings 1972-1973」など、空白を埋めるように次々とリリースされた。

行方不明になり、私にとっても失われたアルバム「Heart Food」。何処かに埋めて忘れていたアルバム。そのCDは、あの時代に引き戻し、迷いこんだその時代の自分と対面したかのような不思議な感覚に襲われた。

音楽は誰かの癒しや喜びとなる。それを意図した作品も多い。しかし、彼女の音楽は彼女自身の為にあったような気がする。たぶん、それは、自分に対する「贖罪」や「救済」だったかも知れない。命をつなぐ「糧」、Heart Food・・・。
だからこそ、彼女の音楽はやりきれないくらい純粋で美しく、こんなにも胸を打つ。

(”Jesus Was A Crossmaker" J.D.サウザーのことを歌ったとされる代表作。)


(”Kiss"アルバム「ハート・フード」に収録された大好きな1曲。荘厳で穏やかだけど何処か悲しい彼女のためいき。歌っている彼女の姿はどこかジョン・レノンを思わせます。)


(”Til Dream Come True"彼女の遺作。白鳥の歌。唯々美しい。)



2011年10月26日水曜日

詞選集~西岡恭蔵&KURO


Artist:西岡恭蔵
Book:西岡恭蔵&KURO 詞選集

「テイク・ワン Live in 南島原」終了しました。今回は陸前高田市で自らも被災されながら、楽器や歌う場所を提供しようとがんばっておられるミュージシャン村上さんを応援する為のチャリティー・コンサートでした。久留米から仲間達が駆けつけてくれまた、地元の方々の協力もいただきながら、昨年に続き「ふるさと」できたことが何よりの幸せです。集まった義援金は10月25日に村上さんの元へ届けられましたことを、ご報告しておきます。応援して下さった皆さんほんとうにありがとうございました。

Liveの最後にみんなで歌おうと選んだのが西岡恭蔵さんの”Glory Hallelujah"でした。

Glory Glory Hallelujah 愛は生きる事
私が私があることを願いながら
心の中にある神様の言葉が
祈りの唄になり あなたに届くように

まず誰かのソロから初めます。そして一人、また一人と声が重なっていき、4番では

耳を澄ませば微かに響く
遙かなあの町で唄う人達の声が
私もあなたも一人じゃないと
共に生きている確かなあの唄声が

と歌われます。「歌を通じて想いを届けたい」これは、Liveのテーマでもありました。誰にでもわかるとてもシンプル歌詞ですが、それが逆に普遍的意味を歌う者に与えてくれ、唄っていて徐々に気持ちが高揚してきます。
恭蔵さんのこのゴスペル・ソングは参加するものの気持ちを一つにする不思議な力があります。

この曲が収録されているアルバム「Farewell Song」('97)は奥様でもありそれ以上にアーティストとしてのインスピレーションを与えてくれる有能な作詞家であり、掛け替えのない存在であったKUROさんを亡くした後につくられたました。
恭蔵さんのKUROさんへの深い愛情と鎮魂の意味が込められた歌でもあります。

”私もあなたも一人じゃないと 
共に生きている確かなあの唄声が”
このフレーズは恭蔵さんが自分に向かって歌っているようで、胸がいっぱいになってしまいます。

このアルバムを制作された2年後の1999年4月、自らの命を絶つことで、Kuroさんの元へ旅立たれてしまいました。もっと恭蔵さんの歌を聞きたかった。残念でなりません。

恭蔵さんはKuroさんが亡くなられたあと、「Kuroちゃんをうたう」というトリビュート・アルバムを制作されています。これには生前関わりのあった多数のミュージシャンが参加され、それぞれが、慈しむようにKuroさんの作品をカヴァーされておりました。

そして恭蔵さんが亡くなられた後、友人達の手でほんとに限られた方達へ向けて届けられたのがこの詞歌集でした。音楽のない言葉で・・・。

この詞歌集を読んでいると、遠くからメロディーが聞こえてきます。
「僕等の生んだ唄達をヨロシク。」この詞歌集の表紙のように二人が笑って語りかけているような気がしてなりません。

僕等にできることは、その唄を歌い続けることで、その遺志を継ぐことしかできません。今後も、このことは、確実に引き継がれて行くことと思います。
今回のLiveで被災地のミュージシャンとの絆を結んでくれたのも天国にいる二人ではなかったのか、”Glory Hallelujah"を出演者全員で歌いながらふとそんなことを思いました。

(恭蔵さんの初期の詞の中で好きな曲、”コカコーラの広告塔の影にまもられた夏” 風景描写が素晴らしい。「パラソルさして」)


(”Glory Glory Hallelujah”野太くてそして優しい声。この曲が歌われる度に沢山の人達のいろんな想いが、新しい絆を結びつけてくれます。)


(今回、陸前高田市の村上さんとの橋渡しをしてくださった秋本節さん。恭蔵さんの遺志を引き継ぎ、僕等に素敵な歌を届けてくれます。”吉祥寺ではなかったんだけど”by 秋本節)

2011年10月13日木曜日

ジェントル・ヴォイス~Kenny Rankin


Artist:ケニー・ランキン
Song:Haven't We Met
Album:Silver Morning


 ケニー・ランキンの音楽はコーヒーの香りがする。初めて聞いたのは今をさること30年ほど前、大学時代だったと思う。一体何処で聞いたのだろう。記憶がさだかではないけど、日曜日の午後、窓から日の光が燦々と降り注ぐ、喫茶店だったような気がする。コーヒーの香りと、暖かい日射し、彼の「ジェントル・ヴォイス」にはそんな場所がよく似合う。

ケニーはニューヨークのハーレムの更に北にあるワシントン・ハイツで生まれた。ヒスパニック系移民が多く住むこの街でラテン音楽や黒人達のコーラスに魅了されコンガを演奏するようになったという。この頃聞いていたラテン音楽は彼のルーツとなっていたように思う。ここまで書いてハタと気づいたのだが、この環境はローラ・ニーロとよく似ている。一見、二人の音楽的な嗜好は違うように聞こえるが、ニューヨークの下町に流れていた音楽を貪欲に吸収している所に同じ根っこがあったような気がしてならない。奇しくも一度だけ後に二人でレコーディングしたことがある。その話はまた後で。
子供時から天使のような歌声と評判だった彼の声は、大人になるにしたがって誰もが認める甘い、ジェントル・ヴォイスへ成長していった。1957年デッカのプロデューサーがその声を認め、以後1960年まで7枚のシングルをリリースしているがヒットには至っていない。この時代はイタロ系ティーン・ポップ歌手として扱われていた。1961年から1963年まではあのテディ・ランダッツォ(リトル・アンソニー&インペリアルズやロイヤレッツなどの名盤を送り出したアレンジャー&プロデューサー)と共に活動。その頃にテディ・ランダッツォのプロデューサーだったドン・コスタ(達郎氏も尊敬する名アレンジャー)からジョアン・ジルベルトのLPを聞かされ大きな影響を受ける。すぐにギターを買い、独学でマスターし弾き語りを始める。

1963年から1966年はCBSレコードと契約シングルを6枚、妻のイヴォンヌとのデュオ名義のシングルを2枚リリースする。この時期にすでに今回取り上げた”Haven't We Met”を一度シングルでリリースしているが、このシングルを30年ずっと探し続けているが未だに入手できないでいる。1964年頃からディオンやジョン・セバスチャンと交流するようになり、彼らの間でフォーク、ジャズ、ボサノバなどをミックスした彼の独自のスタイルが評判となっていった。
1964年にはオリジナル曲”In The Name Of Love”をペギー・リーが、1965年には今回取り上げた”Haven't We Met”をメル・トーメやカーメン・マクレエなどのジャズヴォーカリストが取り上げ、徐々にその名前が知られるようになる。1965年にはボブ・ディランのアルバム「Bringing It All Back Home」にリズム・ギターとして参加。”サブタレニアン・ホームシック・ブルース”や”マギーズ・ファーム”で彼のギターが聞ける。

1967年マーキューリーレコードへ移籍。いよいよアルバムをリリース。
デビュー・アルバム「マインド・ダスターズ」(1967年)
セカンド・アルバム「ファミリー」(1969年)
その中の”Peaceful"は後にジョージ・フェイムやヘレン・レディーがカバーしヒットしている。この時期ドラッグに溺れ、私生活は荒れたこともあったがリハビリで見事克服。心機一転、カリフォルニアへ移り住む。

1972年、新しく設立されたレコードレーベル・リトル・デイヴィッドから
「ライク・ア・シード」をリリースし見事復活する。

そして1974年にはこの「シルバー・モーニング」1975年には「インサイド」1977年には彼の代表作との呼び声も高い「愛の序奏(ケニーランキンアルバム)」をリリースした。
その後のアルバムは以下を参照
After the Roses(邦題:アフター・ザ・ローゼズ)1980年
Hiding in Myself(邦題:ハイディング・イン・マイセルフ)1988年
Because of You(邦題:ビコーズ・オブ・ユー) 1991年
Professional Dreamer 1995年
Here in My Heart(邦題:ヒア・イン・マイ・ハート)1997年
Bottom Line Encore Collection 1999年(ライブ盤)
A Christmas Album 1999年
Haven't We Met? 2001年
A Song For You(邦題:ア・ソング・フォー・ユー)2002年


 ”Haven't We Met”は独特のスキャットとガットギターのめくるめくコードチェンジが素晴らしい。ケニーのオリジナル曲の中では一番のお気に入り。
そしてなんとYou-tubeを検索していたら、30年来探していたシングルバージョンを発見!(恐るべしYou-tube)
2つのヴァージョンには約10年の時間が流れています。聞き比べてみて下さい。

もう一つの彼の魅力はアドリブ。既製のメロディーラインを消化し、見事に自分の歌にしてしまうこのセンスの良さ。彼にかかるとビートルズの曲もハンク・ウィリアムズの曲もヤング・ラスカルズの”グルーヴィン”だって、彼のオリジナル曲のように聞こえてしまうのです。一度ハマッってしまうと、もう抜け出せません。

コード流れの上で自由に舞うメロディー。これと同じ感性をローラ・ニーロにも感じます。実は1983年に幻となったアルバムがあり、これには二人のデュエット曲”Polonaise"(これはプロモあり)とローラがコーラスを付けた”Love Song"が収録されるはずだったようです。いつかこのアルバムがリリースされることを夢見て、待つことにします。

日本にも何度か来日し、熱狂的な支持者を充分満足させてくれました。そんな彼も2009年の6月7日肺がんのための死去。素晴らしいミュージシャンをまた一人失ってしまいました。

「シルバー・モーニング」と「ケニー・ランキン・アルバム」それに「アフター・ザ・ローゼズ」。3枚の素敵なアルバムでのんびりした日曜日の午後を過ごしてみて下さい。きっと彼が至福の時間を与えてくれると思います。

(”Haven't We Met”from 「Silver Morning」)


("Blackbird"ここまでくるとビートルズ曲にあらず完全にケニーランキン節)



(30年間探し求めていた”Haven't We Met”のシングルバージョン。
歌はちょっとラフだけど、これも味があります。フルートがいい)


(Kenny RankinとLaura Nyroの夢のデュオ”Polonaise”これもYou-tubeで発見
これを投稿した人に唯々感謝です。)



2011年10月4日火曜日

胸キュンメロディー・メーカー~Gilbert O`Sullivan


Artist:ギルバート・オサリバン
Song:What's It All Supposed To Mean?
Album:Piano Foreplay


兎に角、希有のメロディー・メーカーだと思う。あのポール・マッカートニーをして「僕の後に続くのは、エルトン・ジョンか、彼だね。」と言わしめた男。
ひねりの効いたコード進行なのにその上に乗っかるメロディーはいたって自然、その上、胸キュンなんですよ。今回はそんなSSW、ギルバート・オサリバンのお話です。
今日のFace Bookで「クレア」のことを取り上げたら奇しくも彼は現在、日本に来ていてツアーの真っ最中でした。これは何か”Good vibration"を感じます。ちょっとおおげさだけど音楽の神様のお告げでしょう。

本名 レイモンド・エドワード・オサリバン。1946年12月1日アイルランドのウォーターフォードに生まれました。アイルランドにいた時期は短く、幼少の頃、家族と共にイングランドのスウィンドン地方に転居。その後、スィンドン芸術大学に進みバンド活動をおこないます。UKのほとんどの若者がそうだったようにビートルズに影響をうけ曲を書き始める。CBSレコードと契約を果たし数枚のシングルをリリースするもの、鳴かず飛ばす、注目される事は無かった。それでもあきらめずデモ・テープをあちこちに送り続ける。そして彼に興味をもった敏腕プロデューサー
ゴードン・ミルズが彼の人生を良くも、悪くも大きく左右することになります。
当時すでにトム・ジョーンズやエンゲルベルト・フンパーディンクのプロデュースで国際的な成功を収めていたミルズ氏は、ギルバートの才能を見抜き、自身のMAMレーベルより、1970年「Nothing Rhymed」をリリース、本国のラジオで瞬く間に火が付き、全英8位を記録、一躍ポップスターの仲間入りを果たす。
ちなみにGilbert O`Sullivanという名前はヴィクトリア王朝時代に活躍したオペレッタで有名作曲・作詞家コンビGilbert&Sullivanをもじったもの。
1971年、「ヒムセルフ」でアルバム・デビュー。チャップリンをおもわせるその衣装と風貌をゴードン・ミルズは嫌っていたといいますが、彼はそのスタイルを強く主張したと言います。今でもこの風貌が強く印象に残っていますので、彼の方が正しかったのかも知れません。
1972年、「アローン・アゲイン」が発表され全米で6週連続1位(この年の米の年間チャートでも2位)、全英3位を獲得、後にポップス史に残る永遠の名曲となりました。

「アローン・アゲイン」

たった今 もし僕がこういう辛さに慣れていなくて
もっと強い落ち込み方をしていたとしたら
確信するよ 自分で自分に決着をつけようと
近所の塔へと向かい その頂上へ昇り
この身を投げていただろうな
僕みたいにぼろぼろになって
急斜面の危うい道にひとり残された時
どんな感じだった?って
必死になって 誰かれかまわず聞いてまわる
教会でね
誰もが「神よ!」と懺悔をしている場所だから
『彼女(マリア様?)』が『彼(イエス様?)』を
この世に残したこと これは簡単なことじゃない
そんな僕らの心には もう迷いはない
そろそろ うちへ帰ったほうがいいかもね
今までと同じ 独りで帰ろう
・・・またひとりか
・・・代わり映えしないなぁ

ほんの1日前のことなのに
昨日までは やる気もいっぱい 頭も冴えて
派手なくらいに陽気に過ごしてた
だって そんな日々を心待ちにしてたんだから
まるで映画の配役をもらったかのような日々
人生でその配役がまわってきたら
嫌がる人なんているはずない そのくらい楽しかったんだ
なのに打ちのめすように 「現実」があらわれて
力も込めず 軽く触れるような手つきで
僕をずたずたに切り裂いていった
神様なんていやしない そんな疑いの気持ちだけ残して
本当に神がこの世に存在するのなら
なぜ僕を・・・見離すの?
この人生に必要な時の中
ほんとに ほんとうに
これがサダメだとでも言いたげに
また独りになった

ここには まだまだ暖かな心があるだろう?
修復できないくらい壊れてしまったこの場所で
傷ついてしまったら
放り投げられるみたいに置き去りにされてしまったら
どうすればいい?
何をすればいい?
また独りになっちゃった・・・
あーあ またいつものように

だから これまで積み重ねた日々を振り返る
浮かび上がるどんな思い出よりも まず
父が死んで大泣きした時のことを思いだす
あふれる涙をかくそうなんて 少しも思わず
ただだた 泣くだけ泣いたんだ
そして僕の母
65才になったとき 神様に魂の休息を与えられた
僕は母が生涯愛し続けた たった一人の男を
なぜあんな風に 神はこの世から召し取って行ったのか
ずっと理解出来ずにいたんだ

母は深く傷ついた心のまま 新たな出発地点に立たされて
励ましの声を送っても 結局何も語ってはくれなかったから
そうして母がこの世から去ったとき
1日中 泣いて泣いて泣きつづけた
あぁ僕はまた独りだ
いつものように
また 独りだよ
ごく自然な流れにそって

Love Songのような歌詞かと思いきや、とてもとても悲しい歌だったのです。のっけから自殺をほのめかしているのですから・・。あの胸キュンメロディーのおかげでこの曲は多くの人達の共感を生み、考えようによっては救いのないこの詩を深く心に染みる名曲に仕上げました。

同年、「クレア」をリリース。この曲、自分の娘の為に書いた曲とばかり思っていましたが、ゴードン・ミルズの娘さんのことを歌ったようですね。この頃ギルバートは忙しいミルズ氏にかわってこのクレアちゃんのベビーシッターをしていてすごくなついていたようです。「クレア」のプロモーションビデオやジャケットの写真をみるとまるで親子のような感じですから、相当親密な関係だったんだと思います。しかし、このミルズ氏との蜜月期も長くは続きませんでした。4枚目のアルバム「A Stranger in My Own Back Yard 」をリリースした1975年あたりから、音楽的な方向性や、さらにロイヤルティーの分配などをめぐって関係が悪化していき、77年のアルバム「Southpaw 」ミルズ氏との間に決定的な亀裂が生じてしまいます。最終的にはオサリバンがミルズを相手取って訴訟を起こす事態にまで発展してしまい、1984年のオサリバン側の勝訴が確定するまで、落ち着いた環境での音楽活動ができませんでした。(その後ミルズ氏は1986年に51歳で死去。オサリバンに関する、すべての音楽的なソースと権利はオサリバンのものとなりました。)
長い法廷争議の末、オサリバン自身も半ば人間不信に陥っていたこともあり80年代にはほとんど目立った音楽活動を行っていませんでしたが、そんな間でも日本では来生たかおや杉真理などをはじめとする彼のファン達によって、彼の音楽は愛され続けられました。アルバム「Rare Tracks」など日本のみで発売されたものもあります。

1985年あたりからはチャンネル諸島のジャージー島という人里離れた島で暮らしながらマイペースで音楽を作り続けています。先頃、最新作「Gilbertville 」がリリースされたばかりです。

今回のこの曲は2003年にリリースされたアルバム「Piano Foreplay 」に収録されている曲で地味だけど近年の彼の作品中では大好きな1曲です。秋になると何故か無性にこの曲が聞きたくなります。

メロディーメーカーとして希有の才能を持ちながら、エルトン・ジョンのような成功は収められなかった彼ですが、彼を愛してやまなかった日本のファンの為に今夜、何処かで歌ってくれているのかと思うと、結局これが彼の生き方であり、巨大な音楽産業から離れ、自分の本当に歌いたいことだけを歌える環境にいるからこそ、彼の書くメロディーが私達の胸を永遠に「キュン」とさせるのだと思ったりします。

最後に日本への彼からの手紙を紹介しておきます。「今回の日本の地震や津波、そして原子力発電所の問題による惨事に驚いている。家族や友人が安全な場所にいて、これ以上の被害が出ないようにジャージーから祈っている。
ギルバート/ケビン/アウサ/ヘレンマリー/タラより」

("What's It All Supposed To Mean?" by Gilbert O`Sullivan)


("What's In A Kiss?" by Gilbert O`Sullivan)


("Alone Again" by Gilbert O`Sullivan)




2011年9月29日木曜日

シング・ア・ソング、その2~Dan Fogelberg


Artist:ダン・フォーゲルバーグ
Song:Longer
Album:ハート・オブ・6ストリングス~The Days Of Acoustic Guitars
Vol.2(CD-BOX)


このブログで昨年ご紹介いたしました。アコースティック・ギター好きにとっては夢のようなCDーBOXの第二弾が発売されました。今回もCD4枚組、名曲ばかりの64曲。大判振る舞いです。ワーナー・ジャパンもやってくれますね。詳細は前回のブログにも書きましたが、何がスゴイのかというと。その仕様なんですね。
まずは、68ページにわたるブックレットが封入されておりまして歌詞、解説、ギター・コード、ギター・プレイ・ワンポイト・アドバイスが1曲1曲についております。歌詞&コードネームは歌部分だけでなく、イントロ、間奏部分も網羅されておりましてコードの押さえ方(ダイアグラム)と的を射た親切な弾き方のワンポイント・アドヴァイスまであります。曲によってオリジナル・キーとプレイ・キー並びにカポ位置まで明記。さらにオープン・チューニングの場合はその旨まで明記してあるというすぐれものです。へたな楽譜や教本買うよりはこっちの方が絶対、勉強になります。

Vol.1もそうでしたがワーナー所属のアーティストだけでなく今回のDisc4はすべてCBSSonyのアーティストなので、まず米国では著作権の関係では作れないと思います。つまり日本でのみの発売なんですね。ワーナー・ジャパンよくがんばりましたね。The Days Of Acoustic Guitarsのシリーズはほんと快挙です。

さて肝心なのは収録曲ですね。

ディスク:1
1. ジェイムス・テイラー / スウィート・ベイビー・ジェイムス
2. アメリカ / 金色の髪の少女
3. トム・ウェイツ / シヴァー・ミー・ティンバース
4. オーリアンズ / 愛が過ぎて行く
5. ランディ・ニューマン / ライダー・イン・ザ・レイン
6. ニコレット・ラーソン / フレンチ・ワルツ
7. リトル・フィート / ロール・アム・イージー
8. エミルー・ハリス / パンチョ・アンド・レフティ
9. ダニー・オキーフ / クイッツ
10. ジョン・セバスチャン / ストーリーズ・ウィ・クッド・テル
11. ジョン・デイヴィッド・サウザー / ハウ・ロング
12. マリア・マルダー / ラヴ・ソングは歌わない
13. ダン・ペン / ドゥ・ライト・ウーマン, ドゥ・ライト・マン
14. デラニー&ボニー&フレンズ / 愛の歌は永遠に
15. グラム・パーソンズ / ブラス・ボタンズ
16. ランディ・マイズナー / テイク・イット・トゥ・ザ・リミット

ディスク:2
1. ドゥービー・ブラザーズ / サウス・シティ・ミッドナイト・レディ
2. リンダ・ロンシュタット / ブルー・バイユー
3. アーロ・ガスリー / ラスト・トレイン
4. カーリー・サイモン / フェアウェザー・ファーザー
5. ジミー・ウェッブ / P.F.スローン
6. ブレッド / 愛の別れ道
7. マンハッタン・トランスファー / ジャヴァ・ジャイヴ
8. ローラ・アラン / プロミセズ
9. ピーター・ポール&マリー  / 人生の裏側
10. キース・キャラダイン / アイム・イージー
11. ウェンディ ウォルドマン / ウェイティング・フォー・ザ・レイン
12. ジョン・スチュワート / デイドリーム・ビリーヴァー
13. ケイト&アンナ・マッガリグル / マイ・タウン
14. テレンス・ボイラン / シェイク・イット
15. ドニー・フリッツ / ウィ・ハッド・イット・オール
16. イングランド・ダン・シールズ / ララバイ

ディスク:3
1. ロッド・スチュワート / イッツ・ノット・ザ・スポットライト
2. リッキー・リー・ジョーンズ / ラスト・チャンス・テキサコ
3. ウ゛ァン・モリソン / ブラン・ニュー・デイ
4. ボニー・レイット / ルイーズ
5. クリストファー・クロス / 夢のささやき
6. ウォーレン・ジヴォン / ザ・フラ・フラ・ボーイズ
7. トニー・ジョー・ホワイト / ザ・トレイン・アイム・オン
8. ナンシー・グリフィス / 時の流れを誰が知る
9. ケニー・ヴァンス / ダーティー・ワーク
10. リッチー・フューレイ / アイ・ウォズ・ア・フール
11. ジョン・プライン / サム・ストーン
12. テリー・リード / リヴァー
13. ジャッキー・デシャノン / オンリー・ラヴ
14. ロッド・テイラー / アイ・オウト・トゥ・ノウ
15. ロドニー・クロウェル / ソング・フォー・ザ・ライフ
16. ジュディ・コリンズ / ターン・ターン・ターン

ディスク:4
1. サイモン&ガーファンクル / ボクサー
2. J.D. サウザー / ホワイト・リズム&ブルース
3. ロギンス&メッシーナ / ダニーの歌
4. ダン・フォーゲルバーグ / ロンガー
5. ジョン・デンバー / 故郷へかえりたい~カントリー・ロード
6. カーラ・ボノフ / 彼にお願い
7. ネッド・ドヒニー / 恋は幻
8. リヴィングストン・テイラー / ゴーイン・ラウンド・ワン・モア・タイム
9. ヴァレリー・カーター / フェイス・オブ・アパラチア
10. ドノヴァン / ラレーニア
11. ザ・バーズ / ビューグラー
12. エリック・アンダースン / リアリー・ラヴ・アット・オール
13. ガイ・クラーク / 汽車を待つ無法者のように
14. ヤングブラッズ / サンライト
15. ティム・ハーディン / ヤンキー・レイディ
16. ボブ・ディラン / ミスター・タンブリン・マン

すごいですね。曲目眺めるだけでも目眩がしそうです。特にうれしかったのが今回取り上げたDan Fogelbergの名曲”Longer”これレギュラーチューニングではないと思っていましたがやっぱりオープンGチューニングだったんですね。これで解決。Youngbloodsの”Sinlight"はすべての弦を1音さげているとか、Keith Carradineの”I'm Easy"のオープン・コードを駆使した押さえ方とか兎に角、眼からウロコの連続です。
Manhattan Transferの”Jiva Jive"なんてスイング・ジャズ系のコード進行で耳コピーも難しかったのですが今後の参考になりそうです。
ちなみに前々回に紹介したEric Andersen「Blue River」からも"Is It Really Love At All"収録されてます。

70年代の音楽が好きでしかもAcoustic Guitars弾きの方は必携です。
もちろん楽器など弾けなくても歌詞がついてますから大丈夫。
”Sing A Song"一緒に歌いましょう。
今日あったイヤなこともきっと忘れられますよ、きっと。

("Longer" by Dan Fogelberg)


("Jiva Jive" by Manhattan Transfer)



2011年9月21日水曜日

12弦ギター~Alzo

Artistアルゾ
Song:Don't Ask Me Why
Album:Alzo(日本盤CD:Bellレーベルジャケ)

 12弦ギターの響きが好きでした。もちろんアコースティック・ギターの方です。
きらきらとしたあの華やさ。音色の豊かさに惹かれ、相棒と出会った頃(21~22才あたり)YAMAHAのFG(ああ懐かしい)の12弦ギターを購入。こればっかり弾いていた時期がありました。6弦ギターにない響きを堪能できる反面、やっかいなことがいくつかあります。まず弦の張り替え。これがけっこうたいへん、12本ありますから当然時間も2倍かかるんです。6~4弦まではオクターブ違う音になっているので4弦の細い弦など注意しないと張り替えの時点でブチッと切れることもあります。次にチューニング。今でこそメーターなどありますが、12本あるので常にチューニングしないと微妙なズレ生じてきます。そして握力。ストロークなどはなんとかなるのですが、ピックを使用するアルペジオなどできれいな音を出すには、かなり押さえる力がいるんです。練習が終わる頃には、指先に腹に2本の筋が出来、そのうち何度も皮がむけて、痛いのをガマンして弾いているとだんだん指先が堅くなってきます。そんな苦労もジャリーンとAMaj7のコードを弾いた時のあの天にも昇る快感を経験してしまうと、だんだん、この響きがないとどんな曲でも、もの足りなくなり、いわば12弦中毒の状態になってしまうのでした。
12弦ギターはアンサンブルとして使用されることはよくあります。一番有名なのはイーグルスの”ホテル・カリフォルニア”のイントロですかね。それにジョージ・ハリソンの”Here Comes The Sun”、その他CSN&Y、バーズ、アメリカ、ジョン・デンバー、S&Gや、その他、ロック系の曲も多数ありますし、日本のミュージシャンの曲も沢山あるんですが、この12弦をメイン・ギターとして使用し、しかもソロでやっているアーティストはレオ・コッケやイギリスのトラッド系のミューシャンを除くとあまりいないのではないでしょうか。

アルゾはそんな数少ない12弦ギターのソロ・シンガーなのです。

このアルバムには、ある日本人とのエピソードがあります。海を越えた音楽で結ばれた絆。ちょっとお付き合い下さい。
アルゾ・フロンテはニューヨークに生まれ、父の手ほどきでギターを始め14才になる頃には充分、弾きこなせるようになっていました。アルゾにはフランクという従兄弟がいました。後にシティー・サーファーズのヒット曲”Powder Puff"を作曲しポップシンガーとなるフランク・ギャリです。63年には二人でBeachcombersに”Surfin' The Summer Away/This Is My Love"(DIAMOND D-168)のシングルを書き二人でヴォーカル、コーラスも担当します。特にB面"This Is My Love"はメロディーとコーラスが美しく、すでにアルゾが卓越した作曲の才能をもっていたことがわかります。
その後ハイスクールの友人だったユーディーン(シャレじゃありません)とコンビを組み1968年頃からアルゾ&ユーディーンとしてマーキュリーから4枚のシングルとアルバム「C'mon and Join Us!」をリリース。当時としては12弦ギターのカッティングにラテン的なパーカッションを組み合わせるという斬新な手法であのローラ・ニーロが彼らに興味をもちプロデュースを申しでたという話もありましたが実現されることはありませんでした。アルバムの宣伝もロクにされないまま、マネージメントからも見放された彼らはコンビを解消。音楽の世界から足を洗いテープメーカー、アンペックス社に勤めることになりますが、そこでアルゾ&ユーディーンのアルバムが好きだった人物に勧められアンペックスと契約。ふたたびミュージシャンの道を歩むこととなります。かれはプロデュースをかねてから敬愛していたジャズ・ミュージシャンでアレンジャーでもあったボブ・ドロウ(ブロッサム・ディアリーとも親交あり)に依頼。ふたりはすぐさま意気投合しアルバム制作へ。完成したアルバムは洗練されたジャズとブラジリアンテイストとソウルフルなリズム、ポップでありつつもフォーキーな親しみ易さをもった素晴らしいものとなりました。そして、1971年の暮れにソロアルバム「Looking For You」リリースされることとなります。

1972年、四谷にあるディスクチャートというロック喫茶。開店準備を終え、最初のお客を待ちながらこのアルバムをターンテーブルに乗せることを毎日の日課にしている人がいました。それは一日の爽やかな始まりを迎えるには恰好のアルバムでした。その店ではピーター・ゴールウェイローラ・ニーロバリー・マンと同じぐらい頻繁にこのアルバムが流れていました。その後、彼は70年代初期から後期にかけ、シュガー・ベイブ、ティン・パン・アレイのマネージャーとして、コンサートやレコード制作に携わることになります。その人とは、後に伝説となる南青山の輸入レコード店パイド・パイパー・ハウスの店長、長門芳郎さんでした。ヴィレッジ・グリーン・レーベル(1988年~1992年)、ドリームズヴィル・レコード(1998年~現在)等のプロデューサーとして、ジョン・サイモン、ローラ・ニーロハース・マルティネス、MFQ、ジェリー・ベックリー(アメリカ)、オーリアンズ、ロビー・デュプリー、ビル・ラバウンティ、ジェフリー・フォスケット、NRBQ、バジー・フェイトン、ケニー・ヴァンステレサ・ブライトなど僕らに素晴らしい音楽を提供してくれましたが、ずっとアルゾのあの素晴らしいアルバムが彼の頭から離れなかったそうです。何時か日本でこのアルバムをCD化したい。そして行方がわからなくなっていたアルゾの消息を探し始めました。
一方、アルゾの方はアルバムからのシングルにヒットの兆しが見え始めた頃、突如アンペックス社のレコード部門が打ち切られるという不運に見舞われていました。ベル・レコードがこのアルバムを高く評価しジャケットを刷新し「Alzo」というタイトルで再リリースしますが不発におわり、ベル・レコードも解体、アリスタに吸収され、すでにレコーディングも終わっていたセカンドアルバムも幻のアルバムとなってしまいました。失意のうちに音楽シーンから姿を消した彼はロングアイランドでアンティーク家具屋を経営しながら、いつか誰かが自分を発見し、探し出して連絡してくれることをずっと信じていました。

日本ではアルゾの消息を人捜しの会社に依頼してまで捜索していましたが、その行方はようと知れませんでした。そんな時、たまたまこのアルバムをネットに掲載したあるブログに、アルゾ本人からの投書があり、彼を捜していることを知っていたブログ主人が長門さんに連絡をとりました。そうして長い間、求め続けていた二人は運命的な出会いを迎えることになります。
音楽にはこんなに素晴らしい出会いがあるんです。

2003年、この出会いにより、日本で、このアルバムは世界初CD化となり、私達に届けられました。2004年には幻だったセカンドアルバム「Takin' So Long」も長門さんの熱意でCD化され、二人の出会いは夢のような出来事を生み出していきました。しかしこのセカンドアルバムのリリースを2が月後に控えていた2004年の2月1日、日本でのリリースを祝ってくれた友人達がつどうバーで、突然の心臓発作がアルゾを襲います。そして永眠。

CDのライナーのアルゾ本人の謝辞にはこう綴られています。

「僕の音楽を知り愛し続けてくれ、再び僕が現れることを待ち続けてくれた素晴らしい人達にこのアルバムを捧げたい。そして、このアルバムはあなた方のためにあるだけでなく、あなたたちのおかげで生まれたのです。」

久しぶりに12弦ギターを弾いてみようと思う。
アルゾの響きは出せないけど、今なら色々な想いを込めて弾けそうな気がする。

("Don't Ask Me Why" by Alzo)


(" Looks like rain" By Alzo)



2011年9月9日金曜日

デニムの手触り~Eric Anderson



Artist:エリック・アンダーソン
Song:Blue River
Album:Blue River


エリック・アンダーソンの「ブルー・リバー」。
履き古され自然に体になじんでいるジーンズのようなアルバム・・・。
ジャケットの手触りさえ、まるで、デニムのよう・・・。

所有しているアナログ・レコードは1976年の国内盤なのでリリースされて4年後だった。だから初めて聞いたのは19才の頃。30年以上の歳月がジャケットの縁を茶色に変色させている。それがかえって、私とこのアルバムの絆のようで、小さなコーヒーの染みさえ愛おしい。

ブルー・リヴァー

苦悩の魂を全部投げ捨ててしまおうと
老人は川へ出かけていく
望みさえすれば何処へでもいけるんだ
ただボートで漕ぎ出せばいい

ブルー・リヴァーは流れ続ける 岸辺にそってどこまでも
深みに落ちたり闇に包まれたりしないように
どうか私達を守っておくれ
あまりにも遠くまで彷徨い出たりしたくはないのだから

このアルバムに針を落とすと、かならず、在る場所へいざなってくれる、それは、とても懐かしく、自分が自分でいられるような穏やかで、喧噪から離れた静かな所。
木々は永遠の緑を保ち、川は清らかでせせらぎは美しい調べを奏でている。
木の香りのする懐かしい家。ここから、遠く離れ、暮らしていく中で色々な悲しみや悩みに打ちひしがれ肩をすぼめて帰ってきても、主人はいつも同じ言葉で迎えてくれる。「やぁ、元気だったかい」。凍える心を暖めてくれる一杯のコーヒーと共に。
ブルー・リバーは決して、その流れを絶やすことはない。
その場所へ運んでいってくれる。私が望みさえすれば・・。

このアルバムがリリースされたのは1972年。ニール・ヤングは「ハーベスト」を、ジェイムス・テイラーは「ワン・マン・ドッグ」。ランディ・ニューマンは「セイル・アウェイ」とSSWの名盤が次々に生まれた年でもあった。
それまでのエリック・アンダーソンはむしろフォーク・シンガーとしてウディー・ガスリー、ピートシーガー、ディランやジョーン・バエズ、フィル・オクスに憧れ、放浪しながらニューヨークへ辿りついた。やっとフォークのメッカだったグリニッジ・ヴィレッジで歌うようになった1965年頃には、すでに公民権運動は下火となりプロテスト・ソングを生み出していたフォーク・シーンもすでに変わり始めていた。
遅れてきたフォーク・シンガー。「おいでよ、僕のベッドに」というヒット曲はあったものの熱い想いで聞いたプロテスト・ソングを歌う場所は彼には与えられなかった。そして72年このアルバムでそんな彼にも転機が訪れた。ジャケットのみならず収録された1曲1曲は静かではあるけれど、時代が流れても、変わることことのない大きなエネルギーで僕らを抱きしめてくれた。不朽の名盤の誕生。
この勢いを借りて、さらに素晴らしいアルバムを彼は用意していた。
「Stages」というタイトルのそのアルバムには「Blue River」と同じ位、いやそれ以上の楽曲が並んでいた。レコーディングも終わり、あとはリリースを待つだけという段になって、あろう事かそのマスターテープが紛失するという信じられない悲劇が彼を襲った。ナッシュビルからニューヨークのCBS本社へ送られたはずのマスターテープが忽然と姿を消してしまったのだった。もし予定どおり「Stages」がリリースされていれば、さらなる成功を手にしていたに違いない。
失意の内にアリスタへ移籍、「Stages」からの6曲を75年のアルバム「Be True to You」に再録するもストリングスなどの過度のプロデュースもあって本人の望むものとは違ったものになった。後にその時の心境をこう語っている。

「キャリアの上で大変な損失だということはわかっていた。いくつかの曲をやり直したけど、同じようにできるワケがない。まるで棒高跳びをしていたら、棒がポキリと折れてしまったようだった。その瞬間の気持ちにはなれないんだ。」

そして、1986年になって、ニューヨークの保管倉庫の中でこのマスターテープは発見された。しかるべき時には発送されず、80年代半ばにナッシュビルの保管倉庫が整理される時になってやっとニューヨークに送られたとされるが今もって真相はわからないという。1991年に「Stages:The Lost Album」としてCD化されたが昔からのファンには大きな話題となるも、大きな評価を得られることはなかった。

悲運のシンガー・ソングライターそんな呼び方をされるけど、このアルバムを残してくれただけでも、エリック・アンダーソンの名前は永久に残ると思う。
皆さんもきっとそう思いますよね。

(”Blue River" by Eric Anderson)


(アルバム「Stages」に収録されるはずだった”Moonchild River Song” From[Be True To You (1975))


2011年8月29日月曜日

音のコラム4:去りゆく夏へ

8月も終わろうとしています。この夏に巡り会った色々な人や想い出に思いを馳せながら「あ〜もう夏も終わりか〜」などと、ちょっとしんみりした気分になりますね。
そんなわけで「去りゆく夏」へ贈るメロディーをセレクトしてみました。今回は歌はなし。インストでいってみたいと思います。


まずは、大好きなBeach Boysからのこの1曲。
("Summer Means New Love" by Beach Boys)

シンプルなのに何故こんなに胸にキュンとくるのでしょう。1965年のアルバム「Summer Days (And Summer Nights)」から。
浜田省吾さんがいた「愛奴」の”二人の夏”の間奏に使われていたことで有名ですが、タツロー氏の新譜「Ray Of Hope」のボーナスCDJoy1.5に収録されてました”二人の夏”では佐橋佳幸さんの思いの一杯つまったリードが堪能できます。

("Memories Of Summer" by Tony Hatch)

UKのバカラックと言われていますトニー・ハッチの隠れた名曲。1974年のアルバム「Hit The Road To The Meland」から。
「タラ〜タラ〜♪」という単純なフレーズの繰り返しなんですがすごく良く練られたメロディーだと思います。Tony Hatchで有名な仕事はペトラ・クラークとの”Downtown"を初めとする一連の作品ということになりますが、それだけでなく他にも素晴らしいメロディーを沢山残しています。その内、是非取り上げみたいコンポーザーです。

("A Summer Place " by Percy Faith & His Orchestra

夏の終わりの定番、パーシー・フェイス・オーケストラ最大のヒット曲。どこからか城達也さんのナレーションが聞こえてきそうです。ドロシー・マクガイア、リチャード・イーガンらが主演した映画「避暑地の出来事(原題は”A Summer Place”)」のサントラとしてマックス・タイナーが作曲したもので、パーシー・フェイスはアレンジとプロデュースを担当している。邦題「夏の日の恋」この邦題は上手いです。1960年2月22日にはビルボードのシングルチャートで1位に輝き、4月25日まで、実に9週間も1位を独走しただけでなく、この年の年間1位シングルにも選ばれています。この映画を見たことのある人は少ないと思いますが(私も見たことありません)映画を見てなくてもその内容が充分想像できるのがスゴイですよね。

("Summer Knows" by Michel Legrand)

夏の終わりのせつないメロディーと言えばやっぱりコレですね。これも1971年の映画「思い出の夏」(SUMMER OF '42)のサントラ。巨匠ミッシェル・ルグランの代表作でもあります。このラッシュでおわかりのように年上の女性と過ごした、15才の少年のひと夏の体験・・。といったこれもかなり胸キュンものの内容になっておるようです。この映画が好評だったのか「続・おもいでの夏」まで作られたとありますが、続編まで見ている方はかなりの映画通とお見受けします。見たことのある方は御一報を。
この曲も星の数ほどカバーがありますが、ジャズトランペッターのアート・ファーマーの日本で制作された同名のレコードはジャケットといい、内容といい秀逸です。これも機会があれば是非。

後半の2曲には後に歌詞が加えられ、歌物もありますが、メロディーだけの方が「去りゆく夏」には似つかわしい気がします。

2011年8月17日水曜日

ハーモニーを求めて~Kenny Vance

Artist:ケニー・ヴァンス&ザ・プラノトーンズ
Song:For Your Precious Love
Album:Lovers Island

僕らは真剣だった
地下鉄でもホテルのロビーでも練習したものさ
ビルの出入り口に群がって
壁に向かって、ドゥーワップを歌ったものさ
僕らはエコーを求めていた。
僕らのサウンドに応えてくれるエコーをね
ハーモニーの神様に出会える場所が必要だったから
僕らはムーングロウズやハープトーンズ、
デルズの歌を歌った。
「シンシアリー」はとても高い声で歌えた
ファルセットだったけど
今にも天に届きそうだったんだ

僕らはハーモニーの神様に出会える場所を探していたんだ。

こんな素敵な歌詞を持つ”Looking For An Echo"は歌詞にあるように天に届きそうなファルセットで始まるドゥ・ワップの名曲です。
そして、映画「奇跡の歌」(Looking For An Echo)はそんなオープニングから始まります・・・。ブルックリン・ブリッジのたもと。アカペラで歌う少年達のシルエット、そしてフィンガー・スナップのリズムに合わせて聞こえてくる美しいファルセット。60年代、美しいアカペラの歌声でアメリカを席巻した伝説のドゥ・ワップ・グループ“ヴィニー&ザ・ドリーマーズ”のリード・ヴォーカル、ヴィンスもいまや50歳。一度はバンドマンとして全米トップ1の頂点に立ちながらも、ある苦い過去と共にその美しい歌声を封印してしまった。一度人生を降りてしまった不器用なミュージシャンが、同じ道を目指す息子や昔の仲間達、彼を暖かく見守る恋人や家族に支えられ再生していく感動的なストーリーです。その主人公を後押しするように全編に流れるのがこの”Looking For An Echo"でした。
劇中に流れるドゥ・ワップの名曲の数々、その吹き替えを担当したのがKenny Vance&The Planotonesでした。そして美しいファルセットで始まる”Looking For An Echo"のオリジナル・ヴォーカリストでもありました。

 Kenny Vanceはこの映画の舞台と同じニューヨークのブルックリンに1942年に生まれました。多くの少年達がそうだったようにR&Rの洗礼を受け、音楽に目覚めていきます。50年代のN,Yのブルックリンやブロンクスといった下町にはドゥ・ワップ・サウンドに心酔したそんな少年達が街角や地下鉄で歌っていたと言います。その中から黒人だけでなく、ディオン&ベルモンツ、メロウ・キングス、カプリス、エレガンス、アールズなどのイタロ系のドゥ・ワップ・グループも沢山生まれてきました。そしてローラ・ニーロ、ポール・サイモンなどのユダヤ系の若者達もハーモニーを求めて、街角で歌っていたようです。そんな情景を想像するだけでもなんだか心がウキウキしてきます。
ケニーも1959年に友人達と「ハバーライツ」というグループを結成。そのデモ・テープを聞いた、名ソングライターコンビ、ジェリー・リーバー&マイク・ストラー(Jerry Leiber and Mike Stoller)の目にとまりレコードデビューすることとなります。その後グループは「ジェイ&アメリカンズ」と改名。”She Cried (シー・クライド) ”(62年5位)、”Come A Little Bit Closer (カム・ア・リトル・ビット・クローサー)”(64年3位),"Cara, Mia (カラ・ミア)"(65年4位),"This Magic Moment (ディス・マジック・モーメント)"(69年6位)などのヒット曲を放っています。またビートルズやローリング・ストーンズのオープニング・アクトをつとめるなどかなり人気があったようです。しかし、時代の流れには逆らえず1970年のラスト・アルバム「キャプチャー・ザ・モーメント」を最後に解散します。
ちなみにこのラスト・アルバムで準メンバーとして参加していたのが、ウォルター・ベッカーとドナルド・フェイゲン。後にスティーリー・ダンを結成する二人です。ケニーはこの二人の才能を当時から高く評価していたようです。
 
 その後1975年にソロアルバム「ヴァンズ32」1988年には「ショート・バケーション」をリリース。2枚ともアメリカン・ポップスのエッセンスがぎゅっと詰まったSSWの名盤として語り継がれています。

1978年には伝説のDJアラン・フリードの自伝映画「ホット・ワックス」に架空のドゥ・ワップ・グループ、プロフェッサー・ラプラノ&ザ・プラノトーンズとして出演していましたが、1992年にはケニー・ヴァンス&ザ・プラノトーンズとしてほんとうに実在するドゥ・ワップ・グループを作ってしまいました。メンバーがまたスゴイ。
元ブルックリン・ドリームス(4枚のアルバムあり。セカンドの”SLEEPLESS NIGHTS”はよく聞いてました。)のジョー・エス・ポジート、エディー・ホーケンソン。
ネヴィル・ブラザーズらに曲を提供しているシンガー・ソングライター、デヴィッド・フォアマン。(この人のソロアルバムも隠れ名盤)
そして、ブログで紹介したことのあるフィフス・アヴェニュー・バンドのマレイ・ウェインストック。
1994年からは、デヴィッド・フォアマンに代わって、タートルズへの曲提供で知られる名コンビ、アラン・ゴードン=ゲイリー・ボナーのゲイリーが正式メンバーとして加入しています。ニューヨークのポップスの生き字引のようなメンバーが脇を固めてるんですね。

 そんな、ケニー・ヴァンス&ザ・プラノトーンズのアルバムの中でも特にお気に入りなのが、2005年にリリースされたアルバム「Lovers Island」収録曲を挙げますと、括弧がオリジナルです
1. Lonely Way(Skyliners)
2. Everybody's Somebody's Fool(Heart beats)
3. Stormy Weather(Five Sharps)
4. For Your Precious Love(Jerry Butler & Impression)
5. My Memories of You(Harp tones)
6. We Belong Together (Videls,Robert & Jonny)
7. Diamonds and Pearls [Acappella Version](Paradons)
8. Angel Baby(Rosie & The Originals)
9. To Be Loved (Forever) (Pentagons)
10. What Are You Doing New Year's Eve? (Orioles)
11. Lovers Island(Blue Jays)
12. Diamonds and Pearls (7と同じ)

全編ドゥ・ワップの名曲のカヴァーで、美しいコーラスとメロディーがこれでもかとたたみかけてきます。このCDを流しながら、一人で行く夏を惜しむもよし、二人で楽しかった夏の思い出に浸るのもよし、パーティで飲んで一緒に歌うのもよし、特に夏にはオススメの1枚です。(残念ながら現在は廃盤のようですがインターネットでダウンロード購入は可能のようです。)

 きっと、彼らが求めていた「ハーモニーの神様」に出会えると思いますよ。

(映画「奇跡の歌」(Looking For An Echo)の予告編?)

(”Looking For An Echo”byKenny Vance & The Planotones)

("For Your Precious Love"byKenny Vance & The Planotones)

2011年7月25日月曜日

僕らのハイウェイ・ソング〜Dan Peek


Artist:アメリカ
Song:Ventura Highway
Album:Homecoming

 ネットで見つけた悲しい知らせ。「7月24日、ダン・ピーク死去。享年60才。」ダンは”アメリカ”というバンドの創立メンバーであり、”アメリカ”のサウンドは私にとって音楽をやる上でのある到達点でもありました。彼の弾くmaj7thコードの12弦ギターの響きに魅了された15の時から、ずっとその”響き”を追いかけて来たような気がします。

 ”アメリカ”のオリジナル・メンバーは3人、ジェリー・ベックレー(米テキサス州フォートワース生まれ)、ダン・ピーク(米フロリダ州パナマ・シティ生まれ)、デューイ・バネル(英ヨークシャー州ハロゲイト生まれ)
この二人のアメリカ、一人のイギリスの青年達が出会ったのはロンドンでした。
彼らの父親達はそろって米空軍に勤務しており、転勤先のロンドンのアメリカン・スクールの同級生だったようです。時は1970年。5人やっていたDazeというフォークロックバンドが解散。その中の3人だけで、アコースティック・ギターを主体としたグループを結成。二人の祖国への望郷も想いもあって”アメリカ”という名前のイギリスのバンドが誕生することになります。後に彼らのマネージメントを引き受けることになるジェフ・デクスターは当時の彼らのステージをこう評しています。「演奏も歌もたいして上手くはなかった。だが3人の生み出すサウンドは素晴らしかった」彼もあの"響き”に魅了されたに違いありません。

そして1971年9月デビュー・アルバム「America」はリリースされました。当初は、あまり注目されませんでしたが、オランダで”名前のない馬”がヒット、1972年になるとイギリスでも火が付き2月には見事No.1となります。そして、アメリカにも飛び火して3月〜4月の間にビルボードでNo.1に輝きます。
アルバムもニール・ヤングの「ハーヴェスト」を追い抜きついにNo.1を獲得。こうして無名の3人の若者の環境は一変することになりました。むろん、日本でも大ヒット。ちょうどその頃ギターを弾き始めた頃で、”名前のない馬”のコードを必死にコピーしたものでした。
”名前のない馬”にはEm,D6(9th),Em9,Dmai9の4つのコードしか出てきません。ちなみに弾いてみると、Em(5弦、4弦の2フレットで押さえる)、D6(9th)(6弦、3弦の2フレット)、Em9(5弦、1弦の2フレット)、,Dmai9(3弦、2弦の2フレット)というように2本の指を2フレットの間で平行移動させるだけで、あの独特な”響き”を簡単に体験できる魔法の様なコード進行になっています。今でも、このアルバムに針をおとすたびにギターを弾き始めた中学生だった私に帰っていきます。(「日溜まり〜America」参照)
そして、あのすばらしい”響き”(サウンド)の核となっていたのがダン・ピークの弾く12弦ギターのカッティングでした。

 1972年11月には、このセカンドアルバムがリリースされ、その中のこの曲”Ventura Highway"は僕らの”エバー・グリーン”となりました。
(蛇足ですがこの見開きアルバム・ジャケの右上の丘にも、Beach Boysの「Surf's Up」に使われていたジェームズ・アール・フレーザーの”エンド・オブ・ザ・トレイル(End of the Trail)がシルエットとなっています。ジャケットをクリックしてみて下さい。彼等もBeach Boysが好きだったんですね。サード・アルバム「Hat Trick」では共演してますし、後にジェリー・ベックレーはカール・ウィルソンとアルバム作ってます。)

大学時代にバンドを組んだ僕らは、毎月、久留米で開かれる音楽同好会”テイク1”のミーティングに参加するために福岡市から久留米へドライブするのが楽しみでした。相棒の運転する車で、"Ventura Highway"を聞きながら、曲作りのこと、ハーモニーなどの音楽こと、それだけじゃなく、映画のこと、感動した小説のこと、将来の夢や恋や、ありとらゆることを話したような気がします。久留米へつづく筑紫野バイパス。通り過ぎていく風景に溶けていくアコースティック・ギターの響きそれはまさに「僕らのハイウェイ・ソング」でした。

その後、彼らはコンスタントにアルバムをリリースしていきます。
1972年 Homecoming (US #9)
1973年 Hat Trick (US #28)
1974年 Holiday (US #3)
1975年 Hearts (US #4)
1976年 Hideaway (US #11)
1977年 Harbor (US #21)
(意図的だったと思いますがすべて「H」からはじまっています。ちなみに「Holiday」以降のプロデュースは5人目のビートルズと言われていましたジョージ・マーティン。)

そして77年のアルバム「Harbor」を最後に、理由はよくわかりませんが、ダン・ピークは”アメリカ”を脱退し、ソロ活動することになります。同時にあの”響き”は私から、だんだんと遠のいていくように思えました。”アメリカ”への思い入れと同じように。

そしてダンがいなくなってしまった今、3人の弾くあのアコギとハーモニーはアルバムの中のセピア色の写真のように、とても大切な懐かしい思い出になってしまいました。

あの頃聞いていた「僕らのハイウェイ・ソング」は、きっと今に至る、長い長い道のりへの道しるべだったのだと思います。
私をここへ、連れて来てくれたダン・ピークさんの冥福を、謹んでお祈り申し上げます。

(”Ventura Highway" by America、右端の12弦ギターがダン・ピーク。)

(”名前のない馬」”たった4つのコードのアンサンブルの魔法の曲)

2011年7月22日金曜日

サザン・ソウルの歌姫〜Candi Staton

Artist:キャンディ・ステイトン
Song:Too Hurt To Cry
Album:Evidence~The Complete FAME Records Masters

 遅ればせながら、「なでしこジャパン」やってくれましたね。最後まであきらめないあの精神的な「強さ」、ひたすら堪え忍んだ後の優勝。すべてが報われたその瞬間の笑顔の「美しさ」。まさに「なでしこ」の花の名に表されるような日本人の心の在り方を身をもって世界に示してくれました。今の日本をどれだけ勇気づけてくれたことか。「ありがとう。」日本中からそんな感謝の言葉が聞こえてきます。
  
 サザン・ソウルにも、この「強さと美しさを」兼ね備えた素晴らしい女性ヴォーカリストのCDがリリースされました。その名はキャンディ・ステイトン(Candi Staton)。2004年に東芝から「Candi Staton」というタイトルで主な音源は聞くことができましたが、今回UKのレーベルKentから発売された「Evidence」はさらに未発表音源を加え、FAME(フェイム)時代にレコーディングしたほとんどが網羅されているというサザン・ソウル好きには夢のような内容になっています。
FAME(フェイム)Florence Alabama Music Enterprisesというスタジオについては「サザン・ソウルの断片~Dan Penn」で書いておりますので興味のある方は覗いてみて下さい。

長くなりますが、その後のフェイムの歴史について少し述べさせて下さい。1965年パーシー・スレッジの”When A Man Love A Woman"(男が女を愛する時)の大ヒットにより一躍、全米が注目するようになったFAMEスタジオにアトランティック・レコードの敏腕プロデューサーのジェリー・ウェクスラーは同年にまずウィルソン・ピケットを連れてきて「ダンス天国」(Land Of 100 Dances )、「ムスタング・サリー」などを録音。それがヒットすると見るや、コロンビアから移籍したばかりのアレサ・フランクリンをここでレコーディングさせ名作「貴方だけを愛して」(I Never Love A Man)を制作しました。

その後、数々のアーティストがこのFAMEからサザン・ソウルの名曲を生み出していきます。その頃フェイムを支えていたミュージシャンは、ジミー・ジョンスン(g)、ロジャー・ホーキンス(dr)、ジュニア・ロウ(b)、スプーナー・オールダム(Kbd)、デヴィッド・フッド(tp,b)などで、後にバリー・ベケット(kbd)、デュアン・オールマン(g)やチップ・モーマン(g)やトミー・コグビル(b)などが参加することもありました。このミュージシャン達の生み出すソウルフルなサウンドを気に入ったジェリー・ウェクスラーは、アレサのレコーディングをこのファイムのメンバーをごっそり引き抜いてニューヨークへ連れていって行いました。このことはフェイムの生みの親とも言えるリック・ホールにとっては自分が作り上げたサウンドを盗もうとする裏切り行為でした。リックはあらたにキャピトルと配給契約を結ぶことにしました。こうしてフェイムとアトランティック・レコードの蜜月期は68年に終わりを告げることになります。

 フェイムのミュージシャン達は元来、リックが「金払い」が良くなかったこともあり、アトランティックとの契約打ち切りに不満をいだき、ジョンスン、ホーキンス、フッド、ベケットはリックの元を去り、69年3月、自分達の新たなスタジオを作りました。これが「マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ」であり、その後、ボズ・スキャッグス、ポール・サイモン、ロッド・スチューアートの録音によってロックミュージシャン達にも知られるようになり、70年代には多数のアーティストがここでレコーディングを行ったため「マッスル・ショールズ詣」と呼ばれるようになりました。フェイムの有能ソング・ライターであったダン・ペンも、この頃にはチップ・モーマンがナッシュビルに設立したアメリカン・スタジオへ居を移し、リックの元から去って行ってしまいました。

 有能なミュージシャンやライターに去られたリックは、今まで白人が中心だったスタジオ・ミュージシャンに新たに黒人を加え専属ミュージシャン集団を新たに作ることにしました。ジョン・ボイス(b) 、フリーマン・ブラウン(dr)がその核となり”フェイム・ギャング”と呼ばれるようになります。そしてライターと新しく加わったのが、このブログで取り上げました。ジョージ・ジャクソンでした。(「サザン・ソウルの至宝]」を参照)
ジョージ・ジャクソンはその後、ティーン・グループ、オズモンズにデビュー曲「ワン・バッド・アップル」を書き、これが71年に全米1位となり、リックの期待にみごと応えています。

スタッフは揃いました。新しい転機に向かって動き出したフェイム。
そんな時、キャンデイはフェイムにやってきました。

キャンデイは幼い時から、教会でゴスペルを歌っていました。10代そこそこで、すでにその才能を開花させ、マヘリア・ジャクソンやスティプル・シンガーズなどの大御所達とツアーするようにまでになっていました。17才の時には、同じグループのメンバーとなんと駆け落ち(!)。さすがにこの時は説得され学校に戻っていますが、後の波乱の人生を予感させるような事件を起こしています。その後、地元の司祭の息子と結婚しますが、この夫が嫉妬深く、家に縛られ、7年の間、教会以外の場所で歌う事を許されなかったそうです。そんな彼女を見かねた兄は、あるときクラブへ連れ出し、そこで歌手だと信じないオーナーにアレサの”Do right woman do right man"を歌って聞かせます。その歌唱力に驚いたオーナーは毎週クラブで歌うように勧め、R&Bの世界へ入っていくことになります。
そのクラブへたまたま来ていた、盲目のシンガー、クラレンス・カーターは彼女の歌にほれ込み、彼女を励まし、フェイムのリック・ホールへ紹介し、そのことがデビューのきっかけとなります。(その後、嫉妬深い夫とは離婚。はれてクラレンス・カーターと夫婦になっています。)
 
 リックとキャンディの出会いはちょうどこのフェイムのメンバーの新旧の入れ替え時期に重なっていたため、初期のレコーディングは”マッスル・ショールズ・サウンド”のメンバーで、その後のレコーディングはほぼ”フェイム・ギャング”のメンバーでおこなわれました。こうして、69年〜72年の間、3枚のアルバムと12枚のシングルがファイムでレコーディングされ、フェイム関連の中では名盤として後世に残されることになります。この2枚組CDにはそのすべてが収録されており、特にデイスク1の68年〜70年の作品の出来映えには言葉を失うくらい圧倒されます。その大半は、以前紹介しましたジョージ・ジャクソンの作品であることも特出すべき点です。

 彼女の魅力は、何と言ってもその歌唱力ですが、アレサのような、パワフルな歌声ではなく、変声期前の少年のような”危うさ”をもっていて、そこが心に訴えかけてくるのです。
それは、自由に歌えなかった7年間を耐え、一気に放たれた歌える喜びに満ちた時間だったからかもしれません。その後、彼女はフェイムを離れ、ワーナーに移籍。ディスコ・ブームの中で数々のヒット曲を放ちますが、このフェイム時代の「強さと」「美しさ」にはふたたび巡り会うことはできなかったように思います。

(傑作の一つとして誰もがあげる”How can I put out the flame”。ジョージ・ジャクソン作)

("You don't love me no more" 合間に入る、ギターが渋い。クラレンス・カーター作)

(今回取り上げました”too hurt to cry"、このハネるようなピアノのバッキングは、後のAORなどのアレンジに繋がっていきます。これもジョージ・ジャクソン作。この人ほんといい曲書きます。)

2011年7月11日月曜日

窓辺の唄~Audrey Hepburn

Artist:オードリー・ヘップバーン
Song:Moon River
Album:Music From The Films Of Audrey Hepburn

「ムーン・リバー」シンプルでいて気品のあるメロディーを持った曲です。
ご存じとは思いますが、この曲は1961年の映画「ティファニーで朝食を」の挿入歌として発表されその年のグラミー賞、アカデミー歌曲賞を受賞しています。
作曲:ヘンリー・マンシーニ、作詞はジョニー・マーサー 。このコンビ、翌年の1962年も「酒とバラの日々」(Days Of Wine And Roses)でアカデミー歌曲賞を受賞、1964年にはグラミー賞を獲得していて、すでに二人とも故人となっていますが、この2曲は二人の代表曲と言っても過言ではありません。(1963年には「シャレード」も二人で書いています。3年連続の受賞とはいかなかったようです。)
「ムーン・リバー」いったいどれぐらいのカバーがあるのでしょう。おそらく数百いや千曲ぐらいはあるのではないでしょうか。カバーは多数あれど。やはりこの曲はヘップバーンが窓辺でギターを弾きながら歌うあのシーン抜きには語れません。というかあの映画のシチュエーションで歌われるからこそ、じーんと胸に染みてくるのです。それはこの歌詞の持つ本当の意味を解き明かしていくことでわかってきます。

かつてこの曲のカヴァーで有名なアンディ・ウィリアムズはTVショーでこう発言しています。「実はこの歌詞の意味には判らない所があります。でも歌ってみます」わずか1番だけの短い歌詞ですが、訳詞者泣かせの曲であり原曲を歌っている歌手でさえ、理解できない所があるようです。

Moon river,wider than a mile
I'm crossing you in style some day
Oh,dream maker,you heart breaker
Wherever you're goin',I'm goin' your way

Two drifters,off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end,waitin''round the bend
My huckleberry friend,Moon river,and me

作詞者であるジョニー・マーサー (Johnny Mercer )はアメリカを代表する作詞家です。(時々曲も書いています)彼は、1909年南部のジョージア州サバナ生まれました。正式な音楽の訓練を受けた事はないようですが、生後6ケ月で彼の叔母がハミングで歌を聴かせたため音楽の好きな子供となり、11,2才の頃には一度聴いた曲すべてを憶えられることができるようになったとあります。19才の時,夢を持って南部の田舎町からニューヨークにやってきます。最初は俳優を志しましたが、すぐに歌手と歌作りに転向しました。そこでビッグバンドに雇われて21才の時、初めての詩がミュージカルで使われました。そこで多くの作詩、作曲家と知りあい、彼も作詞に専念するようになり、多くの曲をミュージカルのために作詩するようになります。
「P.S, I Love You 」(1934)
「Goody,Goody 」(1936)
「Too Marvelous For Words 」(1937)
「Jeepers Creepers 」(1938)
「I Thought About You 」(1939)
「Day In,Day Out 」(1939)
1940年代には、作曲家ハロルド・アーレンと組んで
「Blues In The Night」
「That Old Black Magic」
「One For My Baby」
「My Shining hour」
「Come Rain Or Come Shine」
ジェローム・カーンとは
「I'm Old Fashioned 」(1942)
「Dearly Beloved」(1942)
などを書いています。作曲家としては「Dream」(1944)が有名です。
また訳詞や後に詩を付けた作品としては、
「Autumn Leaves 」(枯葉) (1947,英詞1950)
やデューク・エリントンとビリー・ストレイホーン書いた
「Satin Doll」(サテン・ドール) (1953,歌曲として1958)などがあります。
約1500曲を世に送り出し、その多くの曲がスタンダード・ナンバーとなっていますが実業家としても有名でレコード会社「キャピトル」の創設者の一人でもあり、片田舎から出て来た青年が夢を叶えるというまさにアメリカン・ドリームを実現させた人でもあります。

ヘップバーンが演じるホリー・ゴライトリーも南部の田舎町から夢をもって大都会へやってきた小悪魔的な無邪気さと妖精のような純真さを併せ持った娘でした。そして彼女には孤児だった悲しい過去があり、田舎に残した弟に望郷の想いを持っていました。
「望郷の想い」。若かりし頃のジョニー・マーサー と同じように・・・・。

まず、歌詞の中に出てくる「Moonriver」が問題です。文字どおり「月にある川」という意味ではなさそうです。とすれば「月光が水面(みなも)に漂う川」とロマンティックな情景を想像してもいいのですが、それでもピンときません。そうこう悩んでいる時に、マーサー は最初この曲を「レッド・リバー」 とか「ブルー・リバー」とか呼んでいたという記述を発見しました。つまり「Moon river」である必要はなかったということになります。「レッドリバー」とは泥の川つまり南部の川のことを意味します。ひょっとすると故郷の川ということかもしれないと調べてみましたところありました。なんとマーサー の自宅近くを流れていた川「Back River」が別名「Moon River」と呼ばれていたというサイトを発見しました。(Johnny Mercer's Home: Savannah,Ga. & the "Moon River")
やはり、「Moon River」とは実在する「故郷の川」だったんですね。
というわけで第一の謎は解けました。

次は「My huckleberry friend」という言葉です。「ハックルベリー」というとどうしてもマーク・トウェイン「トムソーヤ」の友達、黒人の”ハックルベリー”を連想しますが、どうもそれではないようです。ここは本来の意味”huckleberry”(コケモモの一種で南部にはよくある木)だと思われます。つまりコケモモの木で遊んだ友達”竹馬の友”というマーサー 流の造語だったと考えられます。
以上を踏まえてあえて意訳するとこんな歌詞になると思います。

ムーン・リバー大きくて広い私の故郷の川
いつかきっとあなたを優雅に渡ってみせるわ
私の夢を育み、時には痛みも残していったそんな川
あなたにどこまでだってついていくわ

あなたと私が、漂っているこの世界には
沢山の素敵なことがこんなにあったのね
きっと虹の袂で待っている同じ幸せを
私達は探し求めているんだわ

ムーン・リバーは懐かしい私の友達
そう、ムーン・リバーと私は

こんな意味ではなかろうかと思いますがどうでしょう。

一見、自由気ままに都会で生きているホリー・ゴライトリー。でも一人で自立して行こうと懸命に生きている女性なのです。その決意とけなげさ。
そしてなかば家出同然に故郷を捨ててきたことへの自責と望郷の念。
そんな思いで、あらためてこのシーンをみるとヘップバーンの表情に微妙な暗い影を感じとれるようになり、じーんと胸に染みてきます。

実は、余りに長いこの映画の試写を見た当時のお偉いさん達は、どこか削れるシーンがないかと注文をつけ、この「窓辺の唄」のシーンをカットすることになったそうですが、ヘップバーンが毅然として反対してなんとかカットされずにすんだという逸話が残っています。もしこのシーンがカットされていたら、ジョニー・マーサー のアカデミー賞はなかったかもしれません。アカデミー賞の半分はヘップバーンにあげてもよかったかもしれませんね。

原作者のトルーマン・カポーティはヘップバーンのホリー・ゴライトリーを気に入らなかったようですが、私は映画と小説は別物だと思っていますので「Moon River」は私にとって永遠の「窓辺の唄」であり、それを歌うのはやはりヘップバーン以外にあり得ません。

(”Moon River” by Audrey Hepburn)

2011年6月30日木曜日

あれから40年〜Marvin Gaye

Artist:マーヴィン・ゲイ
Song:Mercy Mercy Me (The Ecology)
Album:What's Going On

洋楽好きなら、誰もが知っているこのアルバム、この度「40周年記念 スーパー・デラックス・エディション 」なるものが、発売されました。仕様はCD2枚とアナログ盤1枚という豪華盤。2011年のリマスターで未発表トラックも満載(30周年盤の時のトラックに新たに数曲加えられています。)さらにアナログ盤は所謂、デトロイト・ミックス仕様(LAで後に音が加えられる前の原型)になっているもようです。(興味のある方はこちら
1971年のリリースですから、かれこれ40年が経つんですね、このアルバムが発売されて・・・。

 このブログの「2011年2月9日〜魂のキャッチ・ボール」にも書きましたが、後の「ニューソウル」を高らかに宣言した歴史的名盤であることは誰もが認めるところですが、モータウンというレーベルの歴史の流れの中ではかなり異質なアルバムだったと思います。

モータウン(Motown;Motown Records)は、1959年ベリー・ゴーディ・Jrによってデトロイトで設立されたレコードレーベルです。
「黒人向けのR&Bだけでなく広く白人層にもアピールできる音楽を作ろう」と徹底的に音楽の制作を研究し、レコードができる過程を、分業化し、それぞれの分野に高い能力をもったスタッフを配置して、「ヒット曲の製造工場」を作り上げたのでした。作詞・作曲チームには、ホーランド=ドジャー=ホーランド(H-D-H)の3人を筆頭にスモーキー・ロビンソン、ノーマン・ホイットフィールド、アシュフォード&シンプソンらが控えていました。レコーディングも「ファンク・ブラザーズ」といわれるモータウンのセッションには欠かせないレギュラー・メンバーで行われるようになりました。ピアノはアール・ヴァン・ダイク、ベースはジェイムズ(ジェイミー)・ジェマーソン、ドラムスはベニー・ベンジャミン。特にベースのジェイムズ・ジェマーソンとドラムスのベニー・ベンジャミンが作り出す強力なリズムは、我々が思い浮かべる「モータウン」の音そのものでした。
スモーキー・ロビンソン(ミラクルズ)、ダイアナ・ロス(シュープリームス)、テンプテーションズ、マーヴィン・ゲイ、フォー・トップス、スティーヴィー・ワンダー、グラディス・ナイト&ピップス、マイケル・ジャクソン(ジャクソン5)、ライオネル・リッチー(コモドアーズ)、メアリー・ウェルズ、マーサ&ヴァンデラス、などなどアーティストもキラ星の如く。
そして、「アメリカのヒット曲が生まれる町」Hitsville U.S.Aとベリー・ゴーディが命名したように1960年代に黄金期をむかえます。

マーヴィン・ゲイもそれまで、すぐれたアルバムを作り続けモータウンの看板スターではありましたが、いつしか、作家達の作るLove Songを只歌うことにだんだん疑問を感じてくるようになりました。「自分の作りたいものをレーベルの制約をうけることなく自由に創作したい」彼はその権利を「モータウン」の中で初めて勝ち得たアーティストでもありました。

 デュエットとしてこれ以上の相手はいないと思っていたタミー・テレルが脳腫瘍で70年に亡くなったことの悲しみ、父との長年の確執、弟のベトナムでの体験、いまだ貧困にあえぐ同胞達、経済を優先するばかりに破壊されていく自然、公害問題、さらなる環境破壊を引き起こすかもしれない原発。先行きの判らない混沌としたアメリカ社会。彼の中の芽生えていた疑問は非常に個人的なものだったかもしれませんが彼はそれらを歌いたかったのだと思います。そして出来上がったものは、その時代だけの流行ではなく、普遍的な意味をもったコンセプト・アルバムとなりました。

 発売当初、いままでの「モータウン」の路線と大きくかけ離れているこのアルバムをリリースすることにベリー・ゴーディは難色を示したと言われています。それほど内容的にも特異なアルバムだったのです。音楽的にも今までの「モータウン・サウンド」とは違っていました。そのサウンドは今までのR&Bの範疇には収まりきれないものでした。JazzやDoo-Wapなどの様々な音楽を消化し作り出された都会的な音楽ーそれは都市で生活するようななった新しい黒人達のライフ・スタイルを象徴するサウンドでした。
発売されるやいなや全米で200万枚を売り上げ、ソウルチャートで1位、ポップスチャートでも6位を記録する「モータウンの70年代」を代表するアルバムとなりました。その後のスティービー・ワンダーなどの「モータウン」におけるアルバム制作のスタイルを切り開くことにもなりました。
 皮肉なことに、このことは、徹底的に分業化され、管理された「ヒット曲の製造工場」としての「モータウン」の崩壊でもありました。「モータウン」はすぐれた才能をもったアーティスト達が作るレコードを、ただ販売する1レコード・レーベルに過ぎなくなってしまいました。
 また、このアルバムは「モータウン」で初めて、レコーディングのミュージシャン達の名前がクレジットされたアルバムでもありました。つまり、会社側からミュージシャンの誇りや権利を取り戻したとも言えると思います。

このアルバムは1曲をだけを取り上げるべきものではないと思いますが、
この”Mercy Mercy Me (The Ecology)は副題のとおり、今我々が直面している環境問題をすでに71年の時点で問題にしているという点で、非常に先見的な曲だと思います。未だ収束しない「日本の原発問題」をマーヴィン・ゲイが生きていたら何と言ったでしょうか。「40年もの間、いったい何を考え、何をしていたんだ。」
きっとそのツケを今、我々は払わなければならないのかもしれません。

(Mercy Mercy Me (The Ecology) by Marvin Gaye)

Mercy Mercy Me(The Ecology)
ああ、どうかどうかお許しください
そう、すべては以前とは変わり果ててしまった
なんてことだ
あの広い青空はどこへ行ってしまったんだ?
毒が、風のように吹いてくる
北の地から、東から、南から、そして海からも


ああ、どうかどうかお許しください
そう、すべては以前とは変わり果ててしまった
なんてことだ
大海原や僕らの海の上に石油は流されている
魚も水銀に晒されている


ああ、どうかどうかお許しください
そう、すべては以前とは変わり果ててしまった
なんてことだ
大地と空に放射能が溢れ
近くに住んでいた動物たちと鳥たちは死んでいる


ああ、どうかどうかお許しください
そう、すべては以前とは変わり果ててしまった
人が溢れているこの大地は一体どうしたというんだ?
あとどれくらい、大地は人間からの虐待に耐えられる?

私の最愛の主よ
私の最愛の主よ
私の最愛の主よ


(追伸)
 前回、お知らせしておりました、「島原 酒蔵ほろ酔いコンサート」沢山のお客さんに来ていただき大盛況でした。酒蔵という素晴らしい舞台もさることながら、前回の南島原でもコンサートもそうでしたが来ていただいたお客さんがとてもあたたかく本当にいいLiveができたと自負しております。出演者をはじめ音響、照明、駐車場の整理をしてくれたスタッフ、関係者の皆さん、雑事に奔走してくれた家族にこの場を借りて感謝いたします

2011年6月21日火曜日

せつなくて、そして哀しい雨の唄~槇原敬之

Artist槇原敬之
Song:THE END OF THE WORLD
Album:UNDERWEAR

さてさて、この長雨いつまで続くのでしょうか。九州地方は一週間以上「お天道様」を拝める日がありませんでした。皆様、くれぐれも水害、土石流、崖崩れなどにご注意下さい。
ここまで、雨に降られると、当然、「雨の歌」なんぞを物色することになります。生まれた初めて聞いた「雨の歌」なんだったかな。「ハジレコ」(初めて聞いたレコード)ならぬ”雨”の「ハジうた」ですね。やっぱり童謡かな。

「雨 雨 ふれふれ かあさんが
蛇の目でおむかえ うれしいな
ぴっちぴっち ちゃっぷちゃっぷ
らんらんらん」

この歌かな。

タイトルは「アメフリ」。大正時代に作られた歌だそうです。作詞は柳川が生んだ日本を代表する詩人「北原白秋」。作曲は童謡の大御所「中山晋平」
実はこの歌5番までありました。こんな歌詞なんです。

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン
あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン
かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン
ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

この子、その当時としては、裕福な家の子供だったんですね。
後半の歌詞の「上から目線」が妙に気になります。「~したまえ」という今では政治家でさえ使わない言い回しですが、大正時代には子供もこういう言い回しをしていたんですね。しかし、今の時代にはそぐわない歌詞になってしまいました。童謡も時代と共に変化していくものなんですね、難しいものです。

そんなわけで、その後、洋楽の世界を知り、色々な「雨の歌」と出会いました。
「悲しき雨音」カスケーズ(1963年)
「雨に消えた初恋」カウシルズ(1967年)
「雨にぬれても」B.J.トーマス(1970年)
「雨にぬれた朝」キャット・ステーヴンス(1971年)
「雨を見たかい」CCR(1971年)
そうそう、前々回のブログで紹介した
「雨に微笑を」ニール・セダカ
これもプログで取りあげましたロジャー・ニコルズ&ポール・ウィリアムズの「雨の日と月曜日は」その他、映画では「雨に歌えば」,スタンダードナンバーだと「降っても晴れても」(Come rain or come shine)、「九月の雨」(September in the rain)、「Here's that rainy day」(”失恋した日には雨が降る”って歌ですね。)やボサノヴァでは「Gentle Rain」(アストラット・ジルベルト)これに邦楽を入れると、沢山ありますね「雨の歌」。

そんな中で、この数年ずっと心を捕らえられているある曲というか、ある歌詞があるんです。槇原敬之の”THE END OF THE WORLD”。ちょっと歌詞に耳を傾けてみて下さい。
(→歌詞はコチラを)

(”THE END OF THE WORLD”by槇原敬之)

なんともせつない「雨の歌」。これにはやられました。
テーマは”禁断の恋”。
色々な状況設定が考えられますが、これはずばり”不倫の歌”ですね。
特に印象的だったのがこの部分

「あと一回引けば消えるスタンド、
お互いをもっと見つめるのにちょうどいい、
明るさも手に入れられない」

ここの歌詞を聴く度に胸がキュンと締め付けられるんです。このフレーズはなかなか書けるもんじゃありません。

この二人のせつなさ、それゆえの美しさ、許されぬ二人
をまるで短編映画をみるように、ここまで描けるとは。
ある意味、槇原敬之の最高傑作(歌詞の上で)ではないかと、思います。
雨音でも聞きながら、たまにはしんみりと・・・。

追伸:ちょっと個人的な告知をさせて下さい。長崎県の島原半島にお住みの方へ。
我がバンド”浪夢”の「雨の歌」ー”思い出通り”を肴に、おいしい日本酒なんていかがでしょう。
島原 酒蔵ほろ酔いコンサート
2011年6月25日(土) · 18:00 - 21:00
場所 :南島原市有家町 清酒「萬勝」吉田屋酒造 酒蔵
出演、SINOGU、浪夢、ヤスムロコウイチ(このブログでも紹介)


2011年6月14日火曜日

初心~Laura Nyro

Artist:ローラ・ニーロ
Song:It's Gonna Take A Miracle 
Album:Gonna Take a Miracle

 ついに、今回でこのブログも100号の節目を迎えることができました。これもいままで「趣味趣味音盤探検隊」を支えてくださった皆様のお陰です。とくにブログに書くことを勧めてくれた相棒のY氏には感謝しております。今後も細々と続けていこうと思っていますので、今まで同様、ご支援、宜しくお願いします。

 さて、記念すべき100号目に誰を取りあげようかと悩みましたが、ここは「初心に帰って」みることも大事だと思い、ブログ第1号で書かせてもらったLaura Nyroを再度取りあげることにいたしました。私にとって、「洋楽」というまったく未知の世界へ誘ってくれた人でもあり、彼女の音楽性がある意味、その後の人生の音楽的な嗜好を決定したと言っても過言ではないかもしれません。
前回ではプロフィールを書いてなかったので、ここで簡単に紹介しておきます。

 1947年10月18日、ニューヨーク市ブロンクスに生まれる。本名はローラ・ナイグロ(LAURA NIGRO)。父は米軍バンドのトランペッター。母も芸術や音楽が大好きだったようで、そんな父母の影響もあり(ちなみジャズ・シンガーのヘレン・メリルは ローラの叔母に当たる。)、幼い頃からジャズ、ドゥーワップ、ブリル・ビルディング、シカゴ・ソウル、モータウン等を聴き込み、14才頃には街中のプエルトリコのハーモニー・グループと一緒に地下鉄構内で歌っていた。そして、ジャニス・イアンと同じハイスクール・オブ・ミュージック&アーツに在学中の17歳の頃には名曲「And When I Die」や「Wedding Bell Blues」をすでに書き上げていた。かなり早熟な少女だったようです。
(そういえば、ジャニス・イアンも弱冠15歳にしてシングル「Society's Child」でデビューしてますので、たぶんお互い意識していたのかもしれません。そう考えると”At Seventeen”の歌詞の内容に関してもローラも同級生だったんだと思うと、非常に興味深いものがあります。)

 そんなローラの早熟の才能にいち早く気付いたミルト・オクンのプロデュースにより、1966年にヴァーヴ・レコードからシングル「Wedding Bell Blues」でデビュー。翌67年にサンフランシスコのクラブ、ハングリー・アイで初めてプロとしてステージに立つ。同年、サイケデリックの祭典となったモンタレー・ポップ・フェスティヴァルのステージにも立ったが、その出来を巡っては大きな反響が巻き起こっている。(実はこのステージでブーイングを浴びて、それ以後、ステージが嫌いになったという説がありましたが、フェスの模様を収めたDVDを検証してみるとブーイングと思われた音は賛辞の口笛だったことがわかります。)
デビュー曲を含むファースト・アルバムはヒットには至らなかったものの、このアルバムの中の楽曲を後にフィフス・ディメンション、ブラッド・スウェット&ティアーズ、スリー・ドッグ・ナイト、バーブラ・ストライサンドらが取り上げ、いずれも大ヒットになったことから、ローラは一躍注目のソングライターになりました。その後,コロムビア移籍後、68年に「イーライと13番目の懺悔」そして69年には「ニューヨーク・テンダベリー」をリリースします。特に「ニューヨーク・テンダベリー」はSoulのみならずJazzの要素を取り入れ、ローラ独自の音楽性を追求した作品に仕上がっており、深夜ヘッドホンで聞いていたりすると、どこかへもっていかれそうになるほどのインパクトがありました。

そして1971年に発表されたのが、パティ・ラベルが率いるザ・ラベルをフューチャーした、この「ゴナ・テイク・ア・ミラクル」。十代から歌い続けていた、自分のバック・グラウンドであったR&BやSoulの曲達をリスペクトしたカヴァー集。プロデュースは後にフィリー・ソウルで一世を風靡するギャンブル&ハフ。バックも後にフィラデルフィア・サウンドを支えた生え抜きのミュージシャン達所謂、MFSB(Mother Father Sister Brother)という音楽集団です。そしてレコーディング・スタジオは華麗なフィリーソウルの名作の数々を生んだシグマスタジオなんです。この先見性にも脱帽です。
ここで収録曲を簡単に紹介します。

A面
1.I Met Him On A Sunday (S.Owens/D.Coley/A.Harris/B.Lee)1958
ニュージャージー出身のガール・グループ The Shirelles の作品。ストリート・コーナー・ハーモニーの雰囲気が漂うオープニング。気分はすでにブロンクスの街角へ。

2.The Bells (I.Bristol/G.Gaye/M.Gaye/E.Stover)1970(全米12位)
 モータウンに在籍していたデトロイトのグループ、 The Originalsのヒット曲。マーヴィン・ゲイが名盤『ホワッツ・ゴーイング・オン』の制作とほぼ同時期にプロデュースしたそうですから、その当時は結構、新しい曲だったと思われます。

3.Monkey Time (C.Mayfield)1963~Dancing In The Street  (W.Stevenson/M.Gaye/I.Hunter)1964(全米2位)
前半は Curtis Mayfield の曲で Major Lance のヒット曲。後半は Martha & The Vandellas のあまりにも有名な大ヒット曲。暴動を誘発すると曲解されて放送禁止になった逸話は有名。多分、ローラも10代にモータウンやノーザン・ソウルに夢中になっていたと思われます。ローラとザ・ラベルのソウルフルな掛け合いが実に楽しそうです。

4.Desiree (L.Cooper/C.Johnson)1957
ニューヨークのドゥーワップ・グループ、The Charts の名曲。スローなバラードで、冬、ブロンクスのアパートの窓を開けると部屋に入り込んでくる、街の冷気のような曲。大好きな曲です。

5,You've Really Got A Hold On Me (W.Robinson)1963(全米8位)
Smokey Robinson & The Miracles のソウル・クラシック。The Beatles のカヴァーでも有名。オリジナルに負けないコーラスは絶品。

B面
1.Spanish Harlem (J.Leiber/P.Spector)1961(全米10位)
 The Driftersに在籍していた Ben E.King のソロの最初のヒット曲。同じ71年にアレサ・フランクリンも大ヒット(全米2位)させている。日本では山下達郎氏が「On The Street Corner」で取り上げたことで有名。

2.Jimmy Mack (E.Holland/B.Holland/L.Dozier)1967(全米10位)
これも Martha & The Vandellas の大ヒット曲。モータウン・サウンドはティーンエイジだったローラに多大な影響を与えていたようです。85年にはシーナ・イーストンもカヴァー(全米65位)

3.The Wind (N.Strong/B.Edwards/W.Hunter/ Q.Eubanks/J.Gutierrez)1960
「従兄弟から聴かされたのを覚えているわ。私が12歳の時よ。初期のドゥーワップの中でも美しい曲の一つ。聴いた瞬間、ストレートに私の心に届いたの。」と語られた名曲。彼女が初めて買ったレコードでもあるようです。オリジナルはデトロイトの黒人ヴォーカル・グループ、Nolan Strong & The Diablos の美しい曲です。これも、ローラのファンでもある達郎氏が「On The Street Corner」で取りあげてました。

4.Nowhere To Run (E.Holland/B.Holland/ L.Dozier)1965(全米8位)
これも Martha & The Vandellas の曲。モータウンの中でも特にこのグループがお気に入りだったようです。

5.It's Gonna Take A Miracle (T.Randazzo/ B.Weinstein/L.Stallman)1965(全米41位)
オリジナルはリトル・アンソニー&ザ・インペリアルズのプロデューサー、テディー・ランダッツォ(Teddy Randazzo)がその女性版として手掛けたThe Royalettes。作曲も手がけています。後半にかけての盛り上がりが感動的なラストを飾ります。
今回はこれを取り上げさせていただきました。

ローラのアルバムの中では、1曲もオリジナル曲がないという異色のアルバムです。
確か達郎さんが言ってた思いますが、ローラはソング・ライターとしての評価が高く(おそらく、ローラの曲が他のアーティストによってヒットしたからだと思います。)シンガーとしてはイマイチ評価されていないようですが、このアルバムなどを聞くと、白人でこんなにソウルフルに歌える人はそうはいないんじゃないかと思います。

その後、母の死、結婚、離婚、未婚の出産を経て、ローラのプライヴェートは大きく混乱しながらも、熱烈なファンにとっては目の離せない作品群が断続的に届けられましたが、残念ながら、1997年4月8日に卵巣ガンにより享年49才の幕を閉じた。

 こうやって100回の記念号でローラを再度、取りあげることができ、「初心」にリセットでました。今後も「膨大な音盤の森」を、彷徨つづける覚悟でございます。よろしくお願いいたします。

(" It's Gonna Take A Miracle" by Laura Nyro and Labelle)

(これがオリジナル。”It's Gonna Take A Miracle” by Royalettes )


2011年6月8日水曜日

不遇な時でも~Neil Sedaka

Artist:ニールセダカ
Song:Cellophane Disguise
Album:Let The Good Times In


不遇な時期が人生にはかならずあります。そんな時、どう対処していくのかが、その後の人生を大きく左右することがあるものです。今回はそんなお話。

ニール・セダカ。名前だけは誰でもご存じのだと思います。
50年代〜60年代のアメリカン・ポップスの黄金時代、<ブリル・ビルディング・ポップス>の一時代を築いた「歌職人」と呼ぶにふさわしいヒット・メイカーの一人です。
所謂、シンガー・ソング・ライターのはしりでもあり、1959~1962年までに放ったヒット曲はざっとこんなところ。
恋の日記(The Diary、1959年、全米チャート第14位)
おお!キャロル(Oh! Carol、1959年、全米チャート第9位)
星へのきざはし(Stairway to Heaven、1960年、全米チャート第9位)
きみこそすべて(You Mean Everything to Me、1960年、全米チャート第10位)
カレンダー・ガール(Calendar Girl、1960年、全米チャート第4位)
すてきな16才(Happy Birthday Sweet Sixteen、1961年、全米チャート第6位)
ボーイ・ハント(Where The Boys Are、1961年、歌・コニー・フランシス、全米チャート第4位)
小さい悪魔(Little Devil、1961年、全米チャート第11位)
悲しき慕情(Breaking Up Is Hard To Do、1962年、全米チャート第1位、グラミー賞ロックンロール部門ノミネート、1976年ジャズ風リメイク版、全米チャート第8位、アダルトコンテンポラリー部門1位)
可愛いあの子(Next Door to an Angel、1962年、全米チャート第5位) -出だしのスキャットは1968年に日本で流行ったザ・ダーツの「ケメ子の唄」で使われている。

 ざっと眺めるだけでも、メロディーがハナ唄で出てくるぐらい、我々、日本人にも馴染みのある曲達です。

 しかし、優れたヒットメーカーであった彼にも、不遇を囲っていた時期がありました。1965年、ビートルズが全米を席巻。その後に続けとばかり英国のグループが全米ヒットチャートを賑やかすようになります。後に<ブリティシュ・イノベーション>とよばれるようになりました。その後、ベトナム戦争は激化一途をたどり「ウッド・ストック・フェス」に代表されるようなロックの時代となっていき、<ブリル・ビルディング・ポップス>の一時代を築いた「歌職人」達の音楽は、使い古された、流行おくれの音楽と見なされ、瞬く間にヒット・チャートからその名前が消えていきました。
キャロル・キング(曲)&ジェリー・ゴフィン(詩)、ジェフ・バリー&エリー・グリニッやバーリー・マン(曲)&シンシア・ウェイル(詩)でさえこの時代大きなヒットを放つことはありませんでした。
ニールも同様で、素晴らしい才能と輝かしい実績はあるものの、アメリカの音楽業界の中で生きていくには、そうとう厳しかったらしく、ついには他のスターの前座やドサ廻りをやったりしています。
 そんな時期でも、彼は歌を書くことを、決して辞めたりしませんでした。驚くべきことに、「不遇な時代」でも彼のつくる歌は確実に進化していました。
2005年にリリースされたCDが手元にあります。”Let The Good Times In”というタイトルの2枚組のCDはオーストラリアから発売されたもので、1960~1975頃のニールのデモ・レコーディング集です。60年後半のまさにこの「不遇の時代」に作られた売り込みの為に作ったデモ曲(後にいくつかの曲は他のアーティストが取りあげることもありました。)が多数収録されておりますが、この内容が素晴らしいものでした。特にディスク2の楽曲のクオリティの高さは感動モノです。

実は今回取り上げた曲は’68年にUKからリリースされたアルバム「Working on a Groovy Thing (Sounds of Sedaka)」にも収録されていましたが、当時まったく注目されることもなく(デモ集ですからね)、しかもアルバムも本国アメリカでは発売することもままならない状態でした。そのアルバムが丸ごとこのCDに収められているわけですが、デモ集とはいえ、ニールの・ソロアルバムといってもおかしくないぐらい、バックのアレンジもしっかりしています。

このように60年後半は、自分のソロアルバムさえ出せない状況でした。
しかし、転機は訪れました。70年代初頭に自分の生き方や個人的な思いを歌にするSSWブームがおこってきます。キャロル・キングやバリー・マンの復活に後押しされるように、往年のヒット・メーカーが再び、脚光をあびることになります。

ニールも71年に「Emergence (ニール・セダカ・ナウ)」72年には「Solitaire」という復活を宣言するような好盤をリリースしますが大きなヒットにはいたらず、新規一転、イギリスへ活動の場を映すことになります。73年に「The Tra La Days Are Over (ピース・アンド・ラヴ)」。そして、ついに74年にアルバム「Laughter in the Rain (雨に微笑を)」の中の同名曲が全米No.1に輝きついに復活を果たします。
それは、約10年の長きにわたる暗いトンネルでした。
その後、バッド・ブラッド(Bad Blood、1975年、全米チャート第1位、歌にエルトン・ジョンが参加)、愛ある限り(Love Will Keep Us Together、1975年、歌・キャプテン&テニール、全米チャート第1位、グラミー賞最優秀レコード賞受賞) などヒットで第二の黄金時代を迎えることになります。

 もし、この「不遇の時代」に歌を書くのをやめたり、昔の栄光にしがみついて手を抜いた仕事していたら、その後の復活はあり得なかったように思います。天賦の才能もあるでしょうが、「不遇の時代」に書かれた曲であってもメロディーのもって行き方といい、サビの盛り上げ方といい、後の作品に些かも引けを取らない、素晴らしい作品達だと思います。
「手を抜いた仕事はしちゃあ、お天道様に申し訳ねえやな」という、他の<ブリル・ビルディング・ポップス>の「歌職人」達にも言えることですが、これが「職人」としての意地と心意気そして、底力なんですね。

次回でちょうど、このブログも記念すべき100号を迎えることになります。いままで、私の駄文にお付き合いいただき、ブログを見ていただいております皆様にあらためて感謝いたします。

(”Cellophane Disguise” by Neil Sedaka)


("Summer Symphony")


("Good Morning Means Goodbye" by Peppermint Rainbow これも長いことCD化もされず捨て置かれたセダカ作品。2008年にやっとCD化されました。) 


("Rosemary Blue" by Neil Sedaka from「Emergence」)
中学の時に買った日本盤EPを聞いて以来、時々取り出しては聞いているセピア色のアルバムみたいな曲

2011年5月31日火曜日

音のコラム3:魅惑のシャッフル

今回は「音のコラム」の第三弾です。
シャッフルというリズムがあります。中学生の頃からこのリズムに首ったけ。
このリズム、聞いているだけで、ウキウキするような、幸せな気分になれます。
シャッフルを文章で説明すると「ふたつの連続した音符のうち、初めの音符の長さを長めにとり、ふたつめの音符を短くする。ジャズにおいて用いられるリズムであり、ブルースなどジャズの影響を受けた音楽においても用いうる。シャッフルでは、連続するふたつの音符のうちの初めの音符の長さは、ふたつめの音符に対して精確に2倍の長さをもつ。スウィングではふたつの音符の長さの比に厳密な決まりはなく、曲のジャンルや演奏のテンポ、または演奏者の好みに左右される。スウィングのふたつの音符の取り方は、速いテンポの曲ほど等分に近くなり、遅いテンポになるとシャッフルのように2対1の比に近付く傾向がある。」と解説してありますが、何だかよくわかりません。
要するに「タッターカ、タッター・カ、タッター・カ・・・・・」というリズムなんですが、論より証拠、私が初めてシャッフルに魅了されたこの曲を聞いてみて下さい。

("Sunny Skies" by James Taylor)
まあこんな感じのリズムですが、低音(ベース)のリズムと動きがとてもJazzyでオシャレですね、コードもだぶん9th,maj 7thとかを多様していて独特の響きがあります。アコギ一本でここまで表現できることに感激したことをよく憶えています。

そして次ぎに魅了されたのが、このブログの第一回目に登場した、私にとって初恋の人のこの曲でした。
(”"Save The Country" by Laura Nyro)
ほんとんど、ピアノの弾き語りというスタイルですがさらにリズムとコード進行が複雑になっています。跳ねるようこのリズムがR&Bやモータウンの定型的なリズムパターンとは、中学生の私はまだ知るよしもありませんでした。

高校に入って夢中になったのがこの人のあのグループ
(”パレード” by 山下達郎)
とにかく”シュガーベイブ”に夢中でした。この曲はシュガーベイブ名義ではなかったものの、私の思う”シャッフル”の理想型でありました。この曲があるプロデューサーの一連のヒット曲に影響されていたなど、高校生の私には、知るすべもありませんでした。

そして、60年代のポップスへ視野が広がり、また、日本でのソフト・ロックブームの中で出会ったのが、例の”あるプロデューサー”のこの曲でした。
("Ain't Gonna Lie" by Keith)
どうです。”パレード”と同じ香りがしませんか?
バブルガム・ポップの代表曲。
そのプロデューサーの名はジェリー・ロス(Jerry Ross)。
1950年代〜1970年代まで色々なレーベルを立ち上げては数々のヒット曲を作り続けた名プロデューサーです。この人を追いかけていくと、ガールズ・ティーンポップ〜モータウン〜バブルガムポップ〜ノーザンソウル〜フィリーソウル〜ダッチ・イノベーション〜70年代ディスコなどなど、アメリカンポップスの歴史の流れが
わかるようになりました。ジェリー・ロスに関してはその内ブログで取りあげてみたいと思います。

ジェリー・ロス関連でもう1曲。
("I dig everything about you" by The Mob )
ちょっとR&Bっぽくなりましたね。同じ路線でBill Deal & The Rhondelsなどがあります。のちのシカゴやチェイスなどのブラス・ロックの先駆けですね。

ジェリー・ロスのプロデュースにはこうした”シャッフル”の名曲が沢山あります。
やはりHeritage/Colossus 時代がもっともジェリー・ロスの黄金期だと思います。

最後にジェリーロスではありませんがこれも大好きな”シャッフル”曲
(”More Today Than Yesterday”by Spiral Starecase)
おもわず踊り出したくなる、このリズム、またバックのブラスもいいですがなんといってもパット・ アプトンのヴォーカルにつきます。ちなみ曲も自作です。

思い返してみますとこのブログでいままで取りあげた曲にもかなり”シャッフル”系の曲がありますね。このリズム、体に染みついているのかもしれません。

いかがでしたか私が思う”シャッフル”の魅力、ご堪能していただけましたでしょうか。よければ、皆様の「私のイチ押し”シャッフル”曲」などありましたら教えて下さい。

2011年5月18日水曜日

薫風(くんぷう)~John Valenti

Artist:ジョン・バレンティ
Song:Why Don't We Fall In Love
Album:Anything You Want

 「風薫る5月」という表現があります。同じ意味で「薫風(くんぷう)」。これは俳句の季語のようですが、青葉や若葉を吹きわたる爽やかな初夏の風という意味のようです。もう少し風のいきおいが強いと、「青嵐(あおあらし)」とか「風青し」などの表現になるようです。こんな風情のある言葉が生まれるくらい。5月の風は爽やかで、どこからとなく若葉の香りを運んできます。
先日、6月の島原でのLive会場の下見を兼ねて、久留米から相棒のY氏、PAーT氏、助っ人のO氏が来訪、夕方より早速、4人で酒宴と相成りましたが、5月の風の心地よさに誘われ、全員一致で自宅のベランダにテープルをセット、風薫る5月にアウトドアで飲む日本酒もまた格別でした。そんな時の音楽のお伴は70年~80年初頭あたりのAORなどがベストマッチかと。
そんなわけでこの曲などはいかがでしょう。

 ジョン・バレンティ(John Valenti)は「白いスティービー・ワンダー」と呼ばれるほどのスティービー・フォローワー。白人ですが、ヴォーカルの声質といい歌い方といいスティービーそっくりです。
1978年に日本盤「I Won't Change 」(邦題:女はドラマティック)で初めてJohn Valentiを知りましたが、実はこのアルバムはセカンド・アルバムでその前にデビュー・アルバムがありましたが、日本ではリリースされませんでした。
セカンド・アルバムもなかなかの好盤ではありましたが、1976年にリリースされたこのデビュー・アルバムは、内容の素晴らしさと楽曲のクオリティー高さが話題となり、長い間CD化もされず、アナログ盤も数が少なく、貴重盤として、この手のジャンルがお好きな人にとっては、まさの”垂涎の的”でした。そして、2006年になってやっとCD化されました。アレンジ、ソング・ライティング共に噂に違わず素晴らしい内容でした。その中でもこの”Why Don't We Fall In Love"はイチ押しの1曲です。

被災地でも春の足音は聞こえてきていると思います。しかし、復興は始まったばかりで、春の息吹を愛でるような状態ではないと思います。
私の住んでいる島原半島でも雲仙普賢岳災害の後、火砕流の後には何も残っていない状態でした。その情景はまるで月か火星を思わせる植物のない荒廃した大地でしたが、植物の種を空から散布したりした結果、無残な山肌をさらしていた斜面にも徐々に草花や木々が再生し、現在では、「薫風」を運んでくれるまでになりました。
大地はゆっくりとですが、確実に生命を育みそして再生させてくれます。
被災された地域でも、再生されていく風景に励まされながら、生まれた土地にしっかり根をおろし、復興への道を一歩一歩前進されてことを心から願っています。

(”Why Don't We Fall In Love” by John Valenti)


(同じタイプの曲でこれも定番”Take Me To Your Heaven” by Wilson Brothers )

(もうひとつオマケで”Never Turnin' Back By” by Bruce Hibbard)

2011年5月10日火曜日

夜の調べ~Phoebe Snow

Artist:フィービー・スノウ
Song:San Francisco Bay Blues
Album:Phoebe Snow

 確か1974~75年頃だったと思います。ラジオから流れてきた曲に思わず聞き入ってしまいました。アコーステックギターの深い音色にそれを引きずるようなレイドバックしたベース。Jazzyなイントロが雰囲気をつくり、そして歌。その歌声は今まで聞いたことがない歌い方と独特のヴィブラート、その曲のオリジナルが典型的なフォークソングである”San Francisco Bay Blues”と気づくまでに時間がかかりました。それほど、原曲のメロディーが、このヴォーリストにより咀嚼され独自の歌に生まれ変わっていたからでした。
歌っていたのはフィービー・スノウ(Phoebe Snow)。レオンラッセルらがレーベルの設立に深く関わっていたシェルターレコードからのファーストアルバムでした。正直、当時の高校生だった私は、まだこの曲の本当の良さや深みをよく理解できませんでした。自分の中に、この曲がここちよい居場所を得るまでに、色々な人生経験とそれなりの時間が必要だったような気がします。そして今、ちょっと寂しい夜には、時々その居心地のよい場所に帰っていきます。何杯かのバーボンと共に・・。

 フィービー・スノウは1952年NYのマンハッタンで黒人の父とユダヤ人の母との間に生まれました。15才の高校生の時に片思いの相手からギターを習い、カントリー・ブルースやジャズなどに開眼します。最初はグリニッジビレッジのフォーク・クラブを巡り演奏していましたが、1972年半ばにニューヨークのビター・エンドのアマチュア・ナイト・ショーに出た時に、シェルター・レーベルのプロデューサーに認められ、同レーベルと契約しました。
そして1974年の6月にこのファーストアルバムをリリースしました。
(日本盤はジャケットが少し米国盤と違っており、日本盤の方がよかったように思います。)

参加メンバーさっとながめるだけでも、いかに破格の扱いだったかがわかります。
David Bromberg-Guitar (Acoustic), Dobro, Guitar/ Dave Mason-Guitar/The Persuasions-Vocals/Phoebe Snow- Guitar (Acoustic), Vocals/Ron Carter-Bass/ Bob James-Organ, Keyboards/Teddy Wilson-Piano/Chuck Israels-Bass/ Ralph MacDonald-Percussion/Steve Burgh-Guitar/Chuck Domanico-Bass/ Steve Gadd- Drums/Hilary James- Organ/ Hugh McDonald-Bass, Guitar (Electric)/Steve McDonald-Guitar (Electric)/Steve Mosley- Percussion, Drums / Margaret Ross-Harp/Zoot Sims-Saxophone, Sax (Tenor)/Chuck Delmonico-Bass など錚々たる顔ぶれです。そしてプロデュースは巨匠フィル・ラモーン(Phil Ramone)。
特にズート・シムズ、テディ・ウィルソン、ロン・カーター、チャック・イズラエルなどジャズ界でも超一流のメンバーが一同に会しサポートしたアルバムなどまずありえないことです。さらにボブ・ジェームス、スティーブ・ガッド名前を列挙するだけでも目眩がします。こんな豪華メンバーに囲まれながらも決してそれに臆することなく、フィービーのヴォーカルは同等、いやそれ以上の輝きを放っているように思えました。

同アルバムにも収録されている75年に発表したシングル“Poetry Man”が全米チャート5位を記録し、〈グラミー賞〉に〈最優秀新人賞〉にノミネート。順調すぎる滑り出しでした。
その後もフィル・ラモーンのプロデュースにて2枚目のアルバムをリリース。4作目の「Never Letting Go」はアルバムのジャケの素晴らしさも話題になりました。

 しかし、私生活においてはご主人の自殺やお子さんが脳性マヒで生まれたことなどがあり決して順風満帆というわけではありませんでした。その後子供さんの介護のため、一時ステージから離れコンスタントにはアルバムもリリースされなかったものの、そのクオリティーが低下することはありませんでした。そして最愛の娘さんも2007年に他界。一時は復活しましたが、フィービー本人も昨年の一月に脳溢血で倒れ闘病生活を続けていたそうです。そして合併症にて先月、4月26日帰らぬ人となってしまいました。享年58才、若すぎる死でした。
 二枚目のアルバムの「Second Childhood」には「夜の調べ」という邦題がついていましたが、まさに彼女の音楽そのものが「夜の調べ」でした。

今夜は”San Francisco Bay Blues”を聞きながら、謹んで冥福を祈りたいと思います。

(”San Francisco Bay Blues” by Phoebe Snow  誰も彼女のようには歌えないまさにワン・アンド・オンリー)

("Never Letting Go" by Phoebe Snow  4作目のアルバムよりスティーブン・ビショップ作)