2011年11月30日水曜日

小さな町のチャーリー~Danny O'Keefe


Artist:ダニー・オキーフ
Song:Good Time Charlie Got The Blues
Album: O'Keefe

ダニー・オキーフと言えば、まず思い浮かべるのが1972年のヒット曲「グッド・タイム・チャーリーズ・ガット・ザ・ブルース」。イントロのギターが印象的です。所謂、”クリシェ”という手法。同じコードが連続するとき、基本のコードは変えずにそのコードの構成音を変化させひとつのメロディーラインを構成させる技法ですね。それに乗っかるメロディー、鼻にかかったヴォーカルも長閑で、ゆったりと時が過ぎていきます。

この曲に出会ったのは、高校生の時。確かワーナー・レコードの何十周年記念で1973年にリリースされた「ホット・メニュー`73~ベスト・オブ・ワーナー/リプリーズ/アトランティック~」というサンプル・レコードでした。2枚組で980円とLP一枚が2000円ぐらいだった当時としては破格の値段で、お金のない高校生としては、とてもありがたいレコードでした。内容はワーナー/リプリーズ/アトランティックレーベルに所属するアーティストのアルバムとその中から1曲を紹介し、それぞれに解説までついていました。収録曲を挙げますと

A-1.アリスは大統領(アリス・クーパー)
A-2.想い出のサマー・ブリーズ(シールズ&クロフツ)
A-3.リッスン・トゥ・ザ・ミュージック(ドゥービー・ブラザーズ)
A-4.ビューティフル(ゴードン・ライトフット)
A-5.ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート(ライ・クーダー)
A-6.ニューオリンズの町(アーロ・ガスリー)
A-7.目を閉じてごらん(ジェイムス・テイラー)
B-1.ナイト・クラブ(タワー・オブ・パワー)
B-2.プレイング・イン・ザ・バンド(グレイトフル・デッド)
B-3.時はもう無駄に出来ない(オールマン・ブラザーズ・バンド)
B-4.ワイルド・ナイト(ヴァン・モリソン)
B-5.ミート・ボール(ザ・セクション)
B-6.モモトンボ(マロ)
B-7.ブラック・ナイト(ディープ・パープル)
C-1.ホワット・キャン・アイ・ドゥ(レッド・ツェッペリン)
C-2.キープ・ザ・フェイス(ブラック・オーク・アーカンソー)
C-3.スタッカ・リー(ドクター・ジョン)
C-4.いつもあなたと(スピナーズ)
C-5.ホームワーク(J.ガイルズ・バンド)
C-6.ワイルド・ライク・ワイン(ラマタム)
C-7.ラッキー・マン(エマーソン・レイク&パーマー)
D-1.コロラド(マナサス)
D-2.ストップ・アンド・スタート(ジョナサン・エドワーズ)
D-3.幸せを求めて(ユーグ・オーフレー)
D-4.サム・ストーン(ジョン・プライン)
D-5.グッド・タイム・チャーリー(ダニー・オキーフ)
D-6.リトル・ゲットー・ボーイ(ダニー・ハサウェイ)
D-7.愛は面影の中に(ロバータ・フラック)

全28曲。ある意味、70年代の洋楽の世界を拡げてくれた。バイブル的なアルバムでもありました。このアルバムを切っ掛けに、音楽的興味がどんどん広がっていったように思います。当時、このアルバムを買った方も沢山いらっしゃるのでしょうね、たぶん同じ懐かしさをお持ちだと思います。
フォーキーなSSWが好みだったので、特にA面とD面にはよく針を落としていました。

本題からそれてしまいましたね。ダニー・オキーフは1943年にワシントン州ウィナッチで生まれました。ミネソタ州セントポールズへ一家で移り住むようになり、1960年半ばに音楽活動を始めました。やがてフォーク・クラブなどで歌いながら、アメリカ各地を放浪の末、シアトルへとたどり着きました。この地でオートバイ事故に遭い、療養している間に曲作りを始めます。ロスアンジェルスに移り、キャリオーブに参加し一員として、1966年にローカルレーベルから初アルバムをリリースしています。
その後バッファロー・スプリングフィールドのマネージャー通じてアトランティック・レコードのアーメット・アーティガンのオーディションを受け合格。1971年にコティリオン・レーベルからデビュー・アルバムを出し、翌年にリリースされたのがこのアルバムでした。73年に、この曲がヒット、後にエルビス・プレスリーレオン・ラッセルアール・クルーなどがカヴァーしています。
派手さはありませんが、しっかりとしたメロディーを書く人で、どちらかというとミュージシャン好みのミュージシャンです。ジャクソン・ブラウンは"The Road"をレオ・セイヤは"Magdalena"、ジュディ・コリンズは"Angel Spread Your Wings"など彼の作品をカヴァーしています。

”Good Time Charlie Got The Blues ”の歌詞についてですが、舞台はアメリカの小さな田舎町。この町には雨が多く、これといって変化のない毎日に人々は嫌気がさし、人生の勝ち組をめざしみんな都会へ出ていきます。
主人公の男は、この町でも有名な遊び人。女房にも愛想を尽かされ出て行かれる始末。言ってみりゃ最初から人生の負け組。そりゃ、自分でもわかってるんだけどよ、どうしようもねぇだなこれが・・。
さびれていく町ではあるけど、ここは自分にとってやっとみつけた安住の地、この町にいるのは人生を無駄に過ごすだけだと顔見知りの奴等はいい、自分でもここに居るかぎり、人生の勝ち組なんてとてもなれないと、気持ちも憂鬱になるけど、この町を捨てていくことができない。そんな内容です。
この”Good Time Charlie”とは主人公の名前とも考えられますが、慣用句としてちゃんと意味があり、放蕩者、遊び人、道楽者と言った意味があるようです。どちらかというと否定的な意味でなく、「一時は羽振りもよかった(Good Time)けど今はダメな奴、でもあいつ、なんか憎めないだなぁ。」といったニュアンスを持っているようです。

特に印象的なサビの部分

Some gotta win, some gotta lose
Good time Charlie's got the blues
Good time Charlie's got the blues
勝つヤツもいるし 負けるヤツもいる。
浮き沈みのあったあいつも そりゃブルーにもなるさ。
遊び人の楽天家のチャーリーも 憂鬱になるだろうさ。

なんて感じでしょうかね。Charlieとは名前でもあるのですが、一般男性の総称でもあるようで、「小さな町に住むチャーリー」は主人公自身ともとれるますし、自分に似た男ともとれます。

居酒屋で「チャランポランで悩みがないように見えるオレでもさ、ちょっと憂鬱になることだってあるんだぜ。」こんな事、クダまきながら言った覚えもあるような・・・。
そう思うとちょっと男の哀愁さえ漂ってきます。

Good time Charlie's got the blues。憂鬱になることがあっても、エンディングのように口笛ふいて、陽気に、酒でも一杯やりますかね。

(”Good time Charlie's got the blues" by Danny O'Keefe,)

2011年11月18日金曜日

百万語の言葉より~Jimmy Webb


Artist:ジミー・ウェッブ
Song:Didn't We
Album:Ten Easy Pieces

ビートでジャンプ(Up Up and Away)"という曲をご存じでしょうか。フィフス・ディメンションで大ヒットしたこの曲は、1967年のグラミー賞の最優秀レコード賞、最優秀コンテポラリー・シングル賞、最優秀ポップ・グループ賞の3部門を受賞し、また最優秀男性ボーカルにはグレン・キャンベルの”By the Time I Get to Phoenix(恋はフェニックス)が選ばれています。この2曲を提供したのが当時、弱冠まだ21才だったジミー・ウェッブ(Jim Webbとも表記される)です。また、次年度の1968年のグラミー賞ではグレンキャベルのアルバム「By the Time I Get to Phoenix(恋はフェニックス)」が最優秀アルバム賞、リチャード・ハリスに書いた”“MacArthur Park” では最優秀歌曲編曲賞を受賞しており、2年連続してグラミー賞を受賞するという快挙をやってのけています。
バート・バカラックを初め、ほとんどのメロディー・メイカーが作曲と作詞を分業しているのに対し、ジミー・ウェッブはほとんど、一人で詞と曲を書き、アレンジまでこなしています。いわゆるマルチの才能をもった特異なアーティストなんです。バカラックの凝ったメロディーラインに比べ、ジミーの曲はコードの流れに沿った自然なメロディーという印象を受けます。弾き語りのヴァージョンを聞くと判りますが、あまり楽器を加えないシンプルな構成の方が、かえって歌詞とメロディーの輪郭がくっきりして、より深く胸を打ちます。

Jimmyはオクラホマ州のエルク・シティーという小さな町に生まれました。父親がバプティスト派の牧師だったため、音楽的にビートルズなどは御法度のかなり厳格な環境で育ったようです。母の薦めもあり6才からピアノを学び、12才でドビュシーやラベルを弾きこなしていました。13才から詩を書き始めそれに曲をつけるようになります。
ちなみにアート・ガーファンクルのアルバム「Water Mark」(Jimmyの作品集みたいなアルバムです。)に収録されている”Someone Else"という曲はなんと、15才の時に作った曲です!
18才の時一家は南カリフォルニアへ、そして単身ロスへ移りプロのソングライターを目指します。モータウン傘下のジョペット・ミュージックへ就職。週休40ドルでスタジオの雑用をしながら安アパートで毛布にくるまれながら来る日も来る日も曲を書き続けていたそうで、初めてシュープリームスに”My Chritmas Tree"が取り上げられソングライターとしてデビューしています。モータウン時代40曲もの曲を書き上げましたが、結局、芽が出ることはありませんでした。 
しかし20才の時に転機が訪れます、歌手、ジョニー・リヴァースと出会い、この出会いがその後のジミーの人生を大きく変えることになります。ジョニーはジミーの作品をいたく気に入り、”By the Time I Get to Phoenix(恋はフェニックス)”をアルバム「Changes」に採用することにしました。(この曲は実はジョニー・リヴァースが先に発表していたんですね。)この曲が数年後グラミー賞を獲得するのですから、人生における出会いとはほんとうに不思議なものです。そしてジョニーの紹介でフィフス・ディメンションに曲を提供することとなり、このことが成功への道を切り開くきっかけとなっていったのでした。
その後は冒頭に紹介しましたとおり、一躍、時の人なり数々の名曲を色々なアーティストに提供しながら、自らもSSWとしてソロ・アルバムをリリースしていきます。おもなアルバムは以下のとおりです。

Jim Webb sings Jim Webb (1968)
Words and Music (1970)
And So: On (1971)
Letters (1972)
Land's End (1974)
El Mirage (1977)
Angel Heart (1982)
Suspending Disbelief (1993)
Ten Easy Pieces (1996)
Twilight of the Renegades (2005)
Live and at Large (2007)
Just Across the River (2010)

曲についてはここに列挙できないくらい多くの名曲を残しています。興味のある方はここをご覧下さい→ 

残念なことの他人に書いた曲は大ヒットするのに、自分のアルバムの方はセールス的にも芳しくありません。おそらく、作った時の感情を大事にするあまり、凝ったアレンジなどを極力避け、このこだわりが、名前同様、地味(Jimmy)な印象を与えていたためかもしれません。
今回取り上げたアルバム「Ten Easy Pieces」もヒット曲をセルフ・カヴァーしたもので、ピアノの弾き語りというシンプルな形になっています。個人的にはこの静かな、しっとりとしたアレンジが気に入っています。特に”Didn't We”は美しいメロディーを持っている大好きな曲です。
最近リリースされた「Just Across the River」も同様のセルフ・カヴァー集で、こちらはビリー・ジョエル、ウィリー・ネルソン、ジャクソン・ブラウン、グレン・キャベル、マーク・ノップラー、J.Dサウザー、リンダ・ロンシュタットなど豪華なゲストとのデュエットが楽しめる好盤です。
アメリカという国を理解したいなら small townを訪れてみるといい、と何かの本で読んだことがあります。そこには時代に翻弄されながらも、自分の生き方を頑固に守り、慎ましく生きている普通のアメリカ人の姿があり、アメリカの良心はそんな小さな町に支えられているからだと。
ジミーの音楽には、small townに息づく、アメリカの良心が残されているような気がします。そこで語られる美しくけれど哀しい物語には、人生を生きてきた確かな証のようなものを感じずにはいられません。
Wichita Lineman”では荒涼たるウィチタで休まず修繕工事をしながら、別れてしまった恋人への想いを電話線にのせるという、電話の架線工事人が主人公ですし、
Galveton"ではベトナムの戦場から生まれ故郷とそこに残してきた恋人のことを想い、こんな所では死ねないと語る若者のことを歌っています。
沢山の言葉を費やすよりも、どんなに正論をならべるよりも、ある歌の方がより深く胸をうつことがある。Jimmy Webbを聞く度にそんなことを思います。

(15才の時に作った曲。すごいとしかいいようがありません。”Someone Else"by Art Gerfunkel )

("Adios"by Linda Ronstadt。Brian Wilsonもコーラスで参加。90年代、JimmyもBrianも低迷の時期でした。じゃ〜とばかりに、二人に手をさしのべてくれた、リンダ姉御に感謝。)

(今回取り上げた曲。人生には勝つときもあれば負ける時もある。負けてもまたチャンスはまたやってくるよと優しく歌いかける、私の人生の応援歌です。”Didn't We”by Jimmy Webb)

2011年11月1日火曜日

贖罪~Judee Sill


Artist:ジュディ・シル
Song:Kiss
Album:Heart Food


 うつむきがちな顔がどこか憂いを含んでいて、ちょっと謎めいていて神秘的。
このアルバムをレコード屋で見つけたとき、そんな印象をもった。おさげ髪のせいか、まだ高校生だった私とあまり年齢が変わらないように思え、オーケストラの指揮をしている姿に「早熟で才能あふれるアーティスト」というイメージがして、好きだったローラ・ニーロと重なった。そして日本盤の帯に「グラハム・ナッシュがプロデュース・・云々」というコピーを見つけ、迷わずレコード抜き取り、レジへ向かった。ジュディ・シルとの出会いは確か72~73年頃だったと思う。

これは後に知ることになったが、ローラ・ニーロの敏腕マネージャーだったデビッド・ゲフィンがNYを離れ、自分の理想とするレコードレーベル”アサイラム(Asylum)をカリフォルニアで立ち上げ、初めてリリースした第1号アーティストがジュディ・シルだった。このレコードにローラ・ニーロの匂いを感じたのは偶然ではなかったのだ。
透明感のある地味ではあるが、聞く度にじわじわ染みてくるヴォーカル。そしていくつかの曲のメロディーとコーラスには中世の教会音楽のような重厚さと、荘厳さがあった。そのわけは彼女の波瀾万丈の人生にあることをライナーで読んだ気がする、というのも、何度か引っ越しを繰り返すうちこのレコードが行方不明になってしまった。お気に入りだったアルバム。ジャケットと内容の素晴らしさだけが心に残ってはいたが、30年の間に、いつしか、ジュディ・シルという名前さえも思い出せなくなっていた。

ジュディ・シルは1944年10月7日カリフォルニア州ロスアンジェルスに生まれた。父母が経営するバーに置いてあったピアノに幼き頃から親しみ、その後もウクレレやギターの演奏を覚えて作曲を始めるようになる。やがて父が亡くなり、母は「トムとジェリー」の制作をしていたアニメーターと再婚するが、その養父が極度のアルコール中毒で、ジュディは虐待をうけるようになる。そんな日々に嫌気をさしたジュディは両親に反抗的な態度を取るようになり、10代で家出。次第に犯罪とドラッグに手を染めて行く。そしてついに、年上の恋人とガスリン・スタンドを襲い、感化院送りとなる。
そこで、教会音楽と出会い、オルガンを弾くようになる、一から音楽理論を学び、バッハの音楽に惹かれていく。彼女の曲の賛美歌のような穏やかで、美しい旋律は、この頃に学んだことが色濃く反映されている。
その後、ソング・ライティング・コンテストで優勝。音楽の才能を開花させて行く。地元のバーで歌い始めこのままシンガー・ソング・ライターへの道へと進むかに思われたのも束の間、またもドラッグの地獄へとはまってしまい、ジャンキーとなりクスリを買うために身を売ったり、不渡りの手形詐欺に手を染める。再び逮捕されたジュディはやっと中毒症状から脱する。そうした荒んだ体験の癒しとして宗教にますます惹かれるようになる。この頃には母と兄が他界し、結婚と離婚を経験するなど、彼女に取って人生の不幸が一気に押し寄せていたかのような時期だった。
音楽活動を再開したジュディは”Lady-O”という曲を書き上げ、タートルズのベーシストであるジム・ポンスがジュディと友人だったことで、この曲がタートルズに取り上げられ、その名前が徐々に知られるようになる、この頃、グラハム・ナッシュと出会い、クロスビー&ナッシュのツアーで前座をつとめるまでになり。めでたくデビッド・ゲフィンが立ち上げた、アサイラム・レコードと契約することになる。また、一時期、J.D.サウザーと恋に落ち、それを元に書いた”Jesus Was A Crossmaker"をグラハム・ナッシュのプロデュースでシングルとしてリリースする。
1971年、ファーストアルバム「Judee Sill」をアサイラムの第一号レコードとしてリリース。フォークと宗教音楽が合体したかのようなこのアルバムは、評論家からは絶賛されたが、一般的なセールスには結びつかなかった。彼女は、さらに壮大なオーケストラの音などを加え、長い時間をかけて、制作されたのがセカンド・アルバム「Heart Food」だった。この発売を待つ間に、ジュディがインタビューで、デヴィッド・ゲフィンがホモセクシャルであることを暴露してしまい。ゲフィンは激怒、『Heart Food』に対する宣伝を行われず、1973年にリリースされた本作はデビュー作を下回る売上となってしまった。彼はその後ゲイであることを公言するが、その頃まだ同性愛が受け入れられる社会ではなかった。
彼女は自費でサード・アルバムを制作するが、アサイラムとの契約は切られ、結局、この作品はお蔵入りとなる。後に没後25年経ってから『Dreams Come True』として発売。
さらに、不幸は彼女を襲う。ジュディは交通事故に遭い、脊椎を損傷、手術をうけるも。後々まで痛みに苦しむことになり、その痛みを和らげる為に、再びドラッグ手を出してしまう。その後5年近く彼女の行方は知れなかった。1979年。ドラッグの過剰摂取によりジュディ・シル、他界。彼女の人生の終わりを知ったのは、誰も気づかない短いニュースだった。

皮肉なことに、没後、24年を経た、2003年に少量生産でCD化された彼女の2枚のアルバムがあっという間に売り切れた頃から彼女は再評価され始めた。幻だったサードアルバム「Dreams Come True」や彼女の数少ないライヴ演奏の模様を収めた「Live in London: The BBC Recordings 1972-1973」など、空白を埋めるように次々とリリースされた。

行方不明になり、私にとっても失われたアルバム「Heart Food」。何処かに埋めて忘れていたアルバム。そのCDは、あの時代に引き戻し、迷いこんだその時代の自分と対面したかのような不思議な感覚に襲われた。

音楽は誰かの癒しや喜びとなる。それを意図した作品も多い。しかし、彼女の音楽は彼女自身の為にあったような気がする。たぶん、それは、自分に対する「贖罪」や「救済」だったかも知れない。命をつなぐ「糧」、Heart Food・・・。
だからこそ、彼女の音楽はやりきれないくらい純粋で美しく、こんなにも胸を打つ。

(”Jesus Was A Crossmaker" J.D.サウザーのことを歌ったとされる代表作。)


(”Kiss"アルバム「ハート・フード」に収録された大好きな1曲。荘厳で穏やかだけど何処か悲しい彼女のためいき。歌っている彼女の姿はどこかジョン・レノンを思わせます。)


(”Til Dream Come True"彼女の遺作。白鳥の歌。唯々美しい。)