2010年12月29日水曜日

惜別の歌~Cleo Laine

Artist:クレオ・レーン
Album:At Her Finest
SongI :He Was Beautiful(Cavatina)

 今年もあと数日で終わろうとしています。突然、長く連絡のなかった高校時代の友人から電話。開口一番「あんまりいい話じゃないんだけど・・」と前置きして、「実は昨日、同級生のU君が亡くなったんだ」。名前を聞いたとたん、走馬燈のようにその頃の思い出が頭の中を駆け抜けた。元々、体が丈夫ではなかった彼のことは高校卒業後ずっと気になっていましたが、連絡もとれないままになっていた。こうなる前に、会ってもっと話をしておけばよかった。あの8ミリ映画の話を・・。

 高校2年の頃、迷っていた。自分の進路や将来のこと、当然、授業にも身が入らず、成績も下降。高校時代に自分のやりたいことは、勉強以外にもあるんじゃないかと、太宰治の小説と音楽ばかり聞いていたように思う。

そんな、暗い私に、彼が、クラスみんなで映画をつくらないかと持ちかけてきた。彼とはそれまでそんなに親しくはなかったけど、持病を抱えていたため、一年遅れて、高校に入ったということは聞いていた。その為か、彼は、僕らより随分大人びて見えたし、実際、当時の僕等より、しっかりした意見をもっていた。何もしないまま、ダラダラと一年間を終わりたくなかったので、その話に乗ることにした。一人1000円を寄付してもらい、まず映画の資金にする。10月の文化祭で上映する。エレキギターの演奏も禁止という規則にうるさい学校だったので、映画の内容は、先生達に文句を言われないまじめなものにすることにした。テーマは「長崎歴史散歩」自分達の街を、僕らの視点から映像に残そうというものだった。長崎の開港から、西洋への窓の時代、そして原爆投下という人類史上、もっとも悲惨な事実を自分達なりに考えてみようと。

それぞれテーマごとに班をつくり、街へ取材に繰り出し、見よう見まねでインタビューをおこない、一台しかない8ミリカメラを、持ち回りでつかい、フィルムの時間も限られていたため、失敗がないように何度も撮影のリハーサルを繰り返した。
夏休みの数週間はそうやって過ぎていった。
彼はその間、映画のナレーションの原稿を一人で書き上げ、同級生の中で誰が一番、読むのがうまいかオーディションまでやってくれていた。私には音楽へのこだわりがあったので、映画の音の部分をオープンリールのテープレコーダーに録音し、映像と一緒に、同期させ上映することを提案した。それなら、迫力のある音で映画をみることができるし、学校で演奏することのできないロックの音楽も大音響で聞けるからだった。今はデジタルの時代なので、映像と音楽を同期させるのは簡単だが、なにせ、アナログの時代、映像の時間をストップ・ウォッチで記録し、その時間にナレーションと音楽を合わなければならない。何度も失敗を繰り返し、音響班はコツをつかんでいった。

私にどうしても忘れられない一枚の写真があった。原爆資料館でみた一枚の写真。亡くなった少女を家族で見守りながら、焼け跡で火葬している瞬間を切り取ったものだった。夜の闇にぼーっと燃え上がる炎を、うつむきがちに見つめる家族。炎の向こう側の顔はすべて霞んでいた。この写真をフィルムが残っている時間ずっと撮り続けた。
少しずつズームしながら、炎のなかの家族を。
彼にこの写真をラスト・シーンにしたいと言うと、それはいいかもしれないと言って、撮った8ミリのフィルムを編集し始めた。私のイメージを伝えると、彼は、手際よくフィルムを切ったり貼ったりしていく。思ったとおりの映像に仕上がっていく過程は、まるで魔法のようだった。

 すべての作業を終えたのは、文化祭、当日の朝だった。徹夜明けだったけど、あまり眠たくはなかったのは、早く完成した作品を上映したかったからだと思う。いつもは活気のない教室が、暗幕を窓に張り、バンドをやっていた友人から借りたPA装置を設置すると、たちまち自主映画室へ変身した。一度目の上映。やはり、はじめは映像と音がどうしてもずれてしまう。何度も上映するうちに、テープのスピードを変えることを憶え、完全に映像と同期できるまでになった。最後の頃は、教室は満席の状態となり、先生達も見に来るようになった。「炎のなかの家族」のラストシーンでは目頭をハンカチで押さえる女の子達が沢山いた。上映会は大成功だった。

締め切った部屋での上映、汗だくになりながら、僕らの文化祭は終わった。みんなで作り上げた映画がこんなにも人を感動させたことに、言葉で表せない充実感を感じた。それと同時に自分がちっぽけな存在でないことも知った。創造する力が、人の心を動かすことができるという事を、人生において初めて、彼は私に教えてくれた。
後片付けをしながら、彼はぽつりとつぶやいた「僕はシナリオを書いて、映像の仕事がしたいんだ。」

そして高3になって彼は文系、私は理系にクラスが別れたため、あまり会う機会はなくなった、卒業後かれは早稲田大に進学し、大学時代の夏休みに、映画づくりを手伝ってくれないかと誘われたことがあった。私はあの高校での8ミリ映画のことを、彼と話したくて手伝うことにしたが、彼の大学のサークルの仲間達の映画に関する専門的な会話の雰囲気に気おくれして、あの上映会がどれほど自分の支えとなったか、そして、失っていた自信を取り戻したかを、ついに彼に伝えることはできなかった。その後、彼に会うことはなかった。
幾度か手紙のやりとりしたことがあり、その中で彼は「ディアー・ハンター」という映画を絶賛していていた。私も同じ時期にそれを観て、すごい衝撃をうけた。他のことも沢山書いたような気がするが、今では、その映画の事しか記憶にない。

彼との惜別には、その映画の中で使われていた、この美しい音楽が一番ふさわしいと思う。U君、素敵な思い出をありがとう。

 最後にこのブログを覗いてくれた皆さん、一年間ありがとうございました。
今年の締めくくりとしては、ちょっとしんみりした話になってしまいましたが、来年も体と気力が続く限りは、このブロクを続けていこうと思っています。来年も、どうぞ、ご愛顧のほど宜しくお願いいたします。

(He Was Beautiful(Cavatina) by Cleo Laine)

(”Cavatina” from "The Deer Hunter")

2010年12月20日月曜日

からっぽの椅子~Woodstock All Stars

Artist:ウッドストック・オールスターズ
Album:Woodstock Holidays
Song:I Shall Be Released

 食べたい物が、食べれない、見たい物が、見れない、聞きたいものが、聞けない~戦争や、貧困、そういう状況でなくとも病気などで、色々な理由で人々に色々な苦痛がのしかかってきます。そんな中で、一番つらいことは、自由に発言できないことです。
主のない空っぽの椅子、その上に置かれているのは、ノーベル平和賞のメダルです。この一枚の写真は人々の心を動かします。











TVのニュースなどでご存じでしょうが、今年のノーベル平和賞は中国の人権活動家、劉暁波(りゅう ぎょうは)氏が受賞しました。劉氏は、2008年に民主的立憲政治を求める零八憲章を起草して拘束され、2020年6月21日までの懲役刑の判決を受け錦州監獄で服役中です。(この先10年間もあります!)
零八憲章は「前言」、「我々の基本理念」、「我々の基本主張」、「結び」の4部分と、一次集約段階で303名の実名による署名からなります。「前言」では、その時点での中国を「党の天下」と表現し、「党が政治、経済、社会の資源を独占し、大躍進や文化大革命、第二次天安門事件を生みだし、国民と国家が極めて大きな代価を払った」と批判し、その上で、以下の「我々の基本理念」と「我々の基本主張」を挙げています。
基本理念
自由 - 言論、出版、信仰、集会、結社、移動、ストライキやデモ示威等の権利
人権 - 人は国家の主体であり、国家は人民に服務し、政府は人民のために存在する
平等 - 公民は、社会的地位、職業、性別、経済的状況、種族、皮膚の色、宗教や政治思想にかかわらず、その人格、尊厳、自由はみな平等である
共和 - 「皆による自治と平和な共生」、分権制と利益バランスを求める
民主 - 主権は国民と国民が選んだ政府にある
憲政 - 法治によって政府権力を制限し行為の境界を主張する

 彼が求めているものは、我々が小、中学校の社会で習ったような、民主主義の基本の基本を主張しているだけです。なにも国家を転覆させるような、過激な思想でもなんでもありません。日本に育った我々は当然思います、決して間違ったことは言ってないと。なのに12年も服役しなければならない、誰が考えても異常なことです。
中国は今後も経済的には発展していくでしょうが、経済的に発展すれば、必ず、貧富の差が生まれてきます。その富を、どのように分配していくのか、どんなことにその富を使えばいいのか、それは、国民同士で話し合って決める必要があります。
自由に発言してはじめて、理解なり、批判が行われるべきで、決して一握りの特権階級が決めるべきことではないのです。そういう意味では中国の民主化の波は止められないと思います。民主化への声を、弾圧という防波堤でなんとか食い止めているかもしれませんが、一つでも小さな穴が開けば、やがて途方もない力となって流れ出すことでしょう。その小さな穴が今回の出来事だったと思います。

 もうすぐクリスマスです。劉氏はどんな思いで、今年のクリスマスを迎えるのでしょうか。
十年ぐらい前でしょうか、ウッドストックに在住しているミュージシャン達が、素敵なクリスマスアルバムを作ってくれました。最後はこの曲で締められています。
 
I Shall Be Released

They say ev'rything can be replaced,
Yet ev'ry distance is not near.
すべてのものは置きかえられるという
でも、すべての距離ははっきりしていない
So I remember ev'ry face
Of ev'ry man who put me here.
だから,すべての顔を覚えている
私を、ここに置いたすべての人の顔を
I see my light come shining
From the west unto the east.
Any day now, any day now,
I shall be released.
私が放つ光が輝いているのがみえる
西から東へ
もうすぐ、すぐにでも
私は自由になれるんだ

They say ev'ry man needs protection,
They say ev'ry man must fall.
だれもが、保護が必要だという
だれもが、堕落するという
Yet I swear I see my reflection
Some place so high above this wall.
だけど、自分の分身が見えるんだ
この壁よりもっと高いどこかに
I see my light come shining
From the west unto the east.
Any day now, any day now,
I shall be released.
私が放つ光が輝いているのがみえる
西から東へ
だから、もうすぐ、すぐにでも
私は自由になれるだろう

Standing next to me in this lonely crowd,
Is a man who swears he's not to blame.
この孤独な群集の中に
自分は悪くないという奴が立っている
All day long I hear him shout so loud,
Crying out that he was framed.
一日中、大声で叫ぶ声もきこえる
自分はめられたと泣き叫ぶ声が
I see my light come shining
From the west unto the east.
Any day now, any day now,
I shall be released.
私が放つ光が輝いているのがみえる
西から東へ
だから、もうすぐ、すぐにでも
私は自由になるだろう

風には国境がありません。
数年前、ウッドストックから発信されたこの曲は、日本の私のもとへ届きました。
そして、こんどはクリスマスの頃に風にのって、中国にいる孤独な彼のもとへ届くことを祈りつつ・・。

(残念ながらこの音源はありません)

(Joe Cocker - I Shall Be Released (Live at Woodstock 1969))


2010年12月14日火曜日

師走の挽歌~渡辺貞夫

Artist:渡辺貞夫
Album:I'm Old Fashioned
Song:Gary

 今年もいよいよ、残り少なくなってきました。師走は何か、もの悲しいですね。
街には沢山の人が行き交い、一年の中でも、華やかなハズなんですが、冷たい風が頬を突き刺し、冷気で耳が悴んだりすると、気持ちまで、こごえるようです。ため息などつきつつ、ふと思い浮かぶメロディーがこの”Gary"です。
そんなわけで、今回はこのブログで取りあげるのは初めてのJazzのアルバムです。

 ”ナベサダ”こと渡辺貞夫さんは日本を代表する、サックス、フルート奏者。それだけではなく優れた作曲家でもあります。1933年生まれですから、御年77才、バリバリの現役です。18才で上京し、21才の時、横浜のジャズクラブ「モカンボ」で秋吉敏子(ちなみ日本人でただひとり、ジャズ殿堂入りしました。)率いるコージー・カルテットに加入、その当時から、すでに卓越したテクニックを持っていたと言われています。

若き”ナベサダ”さんに大きな影響を与えたと言われるのが、守安祥太郎というピアニストでした。若くして夭折したため、幻のピアニストと言われていますが、その当時まだ、浸透していなかった”ビバップ”のジャズの手法を理論的に解析し、周囲の日本人ミュージシャンにレクチャーするなど、指導者的立場にあったとされます。あのチャーリー・パーカーのめまぐるしい超絶演奏を正確に採譜して、若き日の”ナベサダ”さんを驚かせたというエピソードがあるぐらい天才肌だったようです。守安祥太郎に関しては、ほとんど録音が残されていないとされていましたが、最近「モカンボ」でのセッションを記録したテープが発見され、その斬新な演奏は、今後、再評価されることと思います。ちなみにその「モカンボ」でのセッションを仕切っていたのが、ハナ肇、会場のもぎりをしていたのが植木等だったそうです。みんな夢を追っていたんですね。幻のピアニスト守安祥太郎は、その後、31才の若さで、電車に飛び込み自殺。極度のノイローゼが原因だったと言われています。

”ナベサダ”さんは、秋吉敏子が渡米したのち、代わってバンドを引き継ぎましたが、33才の時に自らも渡米、ボストン市のバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学します。そしてここで、その後の音楽人生に影響を与えた2人目のミュージシャン、この曲の題名にもなっているゲイリー・マクファーランド(Gary McFarland )と出会います。ヴィブラフォン奏者だったGaryは”ナベサダ”さんにその当時まだ新しい音楽だったボサノバを教え、彼にさらなる世界を指し示したようです。ゲイリー・マクファーランドはポピュラーの曲を積極的に取りあげ、Jazzは聞きやすく、より身近な音楽なんだということを主張していきました。個人的にも晩年近くに録音した「バタースコッチ・ラム」や「トゥデイ」などはJazzというよりは、ソフトロックのアルバムとして聞いていたほどで、Jazzの王道からすると、かなり異色のミュージシャンだったと思います。このJazzをより身近なものにする手法は、その後の”ナベサダ”さんに、サックスのフレージングだけでなく、作曲法においても大きな影響を与えたのではないでしょうか。(Garyは残念ながら1971年没。)ゲイリーに捧げられたこの曲でも歌心あふれるメロディーを、噛みしめるように演奏しています。バックはこれ以上のメンバーは望めなかったであろうリズムセクション、ザ・グレイト・ジャズ・トリオ〜ハンク・ジョーンズ(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)です。

この曲の胸を締め付けるメロディーは、マル・ウォルドロンがビリー・ホリデイに捧げた”レフト・アローン”やトム・スコットの代表作、映画”タクシー・ドライバー”のテーマ曲にも匹敵すると思います。
師匠ゲイリー・マクファーランドだけではなく、若き日々に、切磋琢磨した幻のピアニスト守安祥太郎に捧げる鎮魂歌であったとも言えます。

「師走の挽歌」はすべての悲しみを包み込んでくれるようです。

(”Gary" by 渡辺貞夫withグレイト・ジャズ・トリオ)

(幻のピアニスト守安祥太郎さんの貴重な録音。54年当時、パーカーやパド・パウエルのビバップを自分のものにしていたことがわかります。)

2010年12月8日水曜日

失われた週末~Harry Nilsson & John Lennon

Artist:ハリー・ニルソン
Album:Pussy Cats
Song:Many River To Cross

 12月8日はジョン・レノンの命日だそうです。今年は30周年目にあたるそうで世界各国で追悼コンサートやイベントが催されているようですね。えぬえいちけーのニュースなんかでも盛んに取りあげられていました。「ジョンの魂を歌い継ぐ」とか「ジョンの願いを世界に」とか、そこまで神格化されると「なんか違うんじゃないかな」と思ったりします。そんなこと考えつつ、ふと、思いだしたのがこのアルバム。
今回はそんなお話をひとつ・・・・。
 
 1970年にビートルズ脱退を表明したジョンはソロアルバム「ジョンの魂」1971年に「イマジン」をそして、シングル「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」などのメッセージソングを相次いでリリースすると同時に、ヨーコと共に泥沼化するベトナム戦争へのアメリカ政府の介入を、公然と批判するようになります。この影響力を恐れた政府は、72年3月には、68年の麻薬不法所持の有罪判決を理由にジョンに対して国外退去を命じます。逆にジョンはFBIによる盗聴や二人の行動の監視などを理由に政府と、居住権をめぐりこのあと4年も裁判で争うことになります。1973年3月にはふたたびアメリカ移民局から国外退去の命令。この時期、居住権をめぐるアメリカ政府との闘争などが原因で精神的ダメージを受けたジョンはヨーコとの仲も次第にギクシャクしていき、ついに1973年10月別居することになります。二人の結婚生活にとって最初で最後の危機だったそうです。
ジョンはヨーコの秘書だった中国系のメイ・パンを同行し、ロサンジェルスへ移り住むことになりますが(ヨーコがメイ・パンに同行を依頼したとも言われています。)ハリー・ニルソンやリンゴ・スターらと毎晩飲み歩き、暴力事件を起こすなど、すさんだ生活をおくります。出入り禁止になった店もあったとか。

1973年10月からヨーコとニューヨークで復縁する翌1974年の11月までの、このロサンジェルス時代をビリー・ワイルダーが監督した、すさみきったアルコール依存症作家を主人公にした映画の題名に擬えてジョン自身が「失われた週末」と命名しています。(ちょっとカッコ良すぎでしょう・・。)

メイ・パンは一緒に過ごしたこの「失われた週末」時期のことを、後に一冊の本にしていますが、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会したり、ビートルズの元メンバーとも交流したりして、ほんとうにジョンにとって最悪の時期だったのかは、甚だ疑問です。独身時代に戻ったように、羽を伸ばせたのではないか、なんて思ったりします。また、この時期にはフィル・スペクターとともにアルバム「Rock'n'Roll」の制作に取りかかっていますが、ヨーコとの別居で荒れていたジョンと、ロニー・スペクターとの離婚問題で神経衰弱だったスペクターは、事あるごとにぶつかり合い、レコーディングは順調には進まず、真偽のほどはさだかではありませんが、あまりのジョンの傍若無人な振る舞いにキレたスペクターが、スタジオのトイレで発砲事件を起こしたなんて話も残っています。結局この時期のレコーディングはマスター・テープとともに行方不明となります。(後にフィル・スペクターからこのマスター・テープを取り返しますが。)嬉々として進まない レーコディングの間に作られたのが、タイトルを呼ぶのも憚れるこのアルバムでした。ジョンが全面的にプロデュースしていますが、あの澄み切ったニルソンの歌声は、アルコールによって聞くも無残なしゃがれ声になっているため、このアルバムはあまり評価されたことがありませんが、このジミークリフ作の”Many River To Cross”は数あるカヴァーの中でも、一二を争うぐらいの出来だと個人的には思います。その叫びは歌詞と相俟ってダイレクトに心に響きます。まるで、ジョンのその頃の心境を代弁しているかのようです。

越えるべき幾多の河
私には往くべき道がわからない
途方に暮れ
ドーヴァーの白い崖をあてもなく彷徨う

越えるべき幾多の河
わずかな意志だけで、生きながらえている
幾多の歳月を荒波が私を洗い続けてきた
私はただプライドだけで生き残ってきた

この孤独は私を離れようとしない
一人の力でやって行くのはこんなにも難しい
女は私から去った その理由を告げずに
私は努力しなければならないのだと思う

越えるべき幾多の河
だが始まりの場所は何処だ
私はただ無為に時を過ごしている

かつて私には暗い牢獄に繋がれたままの
時代があっただめだ、だめだ
一生こんなことでは

越えるべき幾多の河
私には往くべき道がわからない
途方に暮れ
ドーヴァーの白い崖をあてもなく彷徨う

ストリングスのエコーなどは、スペクターの影響でしょうか、後の”マインド・ゲーム”のサウンドにも通じるものがあります。ちなみにDr:Jim Kelter,Ringo Starr,G:Danny Kootch(Jame Taylorの相棒),Jesse Ed Davis(伝説のインディアン系のギタリス),Bass:Klaus Voorman(ビートルズと縁の深いベーシストでリボルバーのジャケットを手がけた画家としても有名)Piano:Kenneth Ascher(ポール・ウィリアムズの共作者として数々の名曲あり→素晴らしい虹~Kenny Loggins参照)など、ライナーをよくよく眺めるとすごいメンツです。

「失われた週末」はジョン・レノンの人生のなかで、暗闇の時代とされていますが、すべての呪縛から解き放たれた時間でもあったのではないでしょうか。でも、完璧なジョン・レノン像 を求める人にとっては消し去りたい時代でしょうね。この世で神様みたいに崇められてるのを尻目に、今頃、天国でニルソンと二人飲み歩いて、今夜も出入り禁止の店を増やしているなんて想像する方が人間味があっていいと思うのですが・・・・。

(”Many River To Cross”by Harry Nilsson ,Produce By John Lennon)

2010年12月2日木曜日

忘れられた名盤~Joanna Carlin

Artist:ジョアンナ・カーリン
Album:Fancy That
Song:Dancing In The Dark

 その当時は、日の目を見ることなく、うち捨てられたようなアルバムの中に、思わぬ宝が隠されているということがあります。所謂、「忘れられた名盤」。今回は、そんなレコードのお話です。

 二十数年前の話になりますが、福岡市に住んでいた頃、1軒のレコード屋さんと巡り会いました。「山兵」とちょっと古風なネーミングのその店は、狭い店内に堆く、アナログレコードが積まれ(その頃はまだ、CDより、レコードが主流だったように思います。)、雑然とした中に、独特の雰囲気があって、何回か通う内に店長のY氏とも親しくなり、Y氏を通じて、同じ趣味のお客さんを紹介して、もらったりしておりました。話が盛り上がると、今度気に入った音源を持ち合いましょうということになり、それぞれが架空の音楽番組を作るように、カセットテープ(まだ、カセットテープの時代でした。)に録音し、さらに1曲、1曲に解説をつけて、数人の間で交流を深めていきました。当時、そんな時間と情熱が何処にあったのか、今でも不思議ですが、さして苦になったりした記憶がないので、よっぽど、その作業が楽しかったのかもしれません。そのお陰で、自分の知らない分野の音楽を知ることができ、音楽に対する視野も段々広くなったような気がします。「音楽の道場」私にとって、そんな所でした。

 そうして情報を交換していた時期に、店長のY氏に、このアルバムを教えてもらいました。今ではもらったカセットも何処にいったかわかりませんが、一曲目の”Dancing in the dark”を聞いた時の衝撃は今でもはっきり憶えています。まるでマリア・マルダーのファースト・アルバムの”真夜中のオアシス”を彷彿とさせる、ちょっとノスタルジックなイントロに絡みつくようなリード・ギター、このギターは、大好きなエイモス・ギャレットで、エンディングにかけてのコーラスのスイング感からして、これはUSAのアルバムに違いないと思い込んでいました。それからこのアルバムを探し続けましたが、ついにそのレコードを手にすることはできませんでした。

 そして、このアルバムの事さえ、忘れかけていた2006年、なんと日本のみでCD化され、ひっそりとリリースされました。邦題「夢見る歌姫」。ちょっといただけない邦題で、ジャケだけみるとまるで1980年代のディスコ・アルバム、内容を知らない限り、まずジャケ買いはあり得なかったでしょう。
ライナーから色々なことがわかってきました。
1)リリースは1979年、USAからではなくUKからだったこと。
2)リード・ギターは、エイモス・ギャレットさんではなくフェアポート・コンヴェンションのギタリスト、ジェリー・ドナフュー(Jerry Donahue)だったこと。
(でもソックリなんです。エイモスさんのギターがお好きな方なら誰だってそう思うはずです。)
3)当時もまったく売れず、在庫が倉庫に山積みされていたようで、市場に出回った枚数が極端に少なかったこと。(だからあまり見かけることがなかったのですね。)

もし、このアルバムが1970年代の前半にリリースされていたら、もっと評価されていたかもしれません。時期が遅すぎました。Joanna Carlin名義では、たった一枚しかリリースされなかった「忘れられた名盤」。

そんなわけで、この曲を聞くたびに、今はなきレコード・ショップ「山兵」を思い出します。店長だったY氏が、もし、今でも、このアルバムの貴重なアナログ盤をお持ちだったら、このアルバムをターン・テーブルに乗せ、当時の思い出を飲みながらでも、語り合いたいものです。

("Dancing In The Dark" by Joanna Carlin)