2010年2月27日土曜日

オープン・ハーモニー~町支寛二

Artist:町支寛二
Album:Love and Mercy
Song:Laughter In The Rain









ア・カペラ(a cappella)~語源はイタリア語。無伴奏の合唱(コーラス)という意味でつかわれていますが、元は、教会音楽の一形式として使われたいた音楽用語だったようです。今では、無伴奏のソロでも「ア・カペラで歌う」とかいいますね。
すでに、ひとつの音楽のジャンルになっているようです。
昔からこのア・カペラというジャンルにはまっておりまして、特にオープン・ハーモニーが好みであります。

 あるブログの解説によりますと、
「男性のハーモニーの基本は上から2つめのテナーがメロディを担当することが普通でした。ダークダックスを思い浮かべてもらうとわかりやすいですが、まんがさんがメロディ、パクさんが大体3度上を唄い、下駄さんが5度、象さんがオクターブ下で支える、といった具合です。これをクローズ・ハーモニー(close harmony)と呼びます。
それを、一番上のパートにメロディを持っていってしまったのがフォー・フレッシュメンで最初の試みだといわれています。そのためには、通常より4度から5度は高い声でメロディが唄えるシンガーが必要となります。このようなフォー・フレッシュメン・サウンドをオープン・ハーモニー(open harmony)と呼ぶようになりました。」

 つまり、クローズ・ハーモニーは1オクターブ以内にコーラスが集中しており、その1オクターブの範囲をこえて、構成されるハーモニーをオープン・ハーモニーと呼ぶようです。(これはあくまでも、Jazzなどの理論のようで、Classicなどでは、密集和音、開離和音をさすようで、意味が異なるようですが・・・。)そのため、オープン・ハーモニーの方が音の拡がりのある、心地よい、響きになるんですね。

 そんなわけで、オープン・ハーモニーにはかなり高いキーのヴォーカルかもしくはファルセット・ヴォーカルが不可欠なのですが、このオープン・ハーモニーとR&Rのリズムをドッキングさせたのが、ビーチ・ボーイズであります。比類なきブライアンのファルセットがなければ、あのドリーミィなハーモニーは完成されなかったともいえるわけです。(これに関しては、いつか取り上げてみたいと思います。)

 このオープン・ハーモニーは、その後、ポップ・ヴォーカル・グループに多大な影響をあたえました。日本ではア・カペラという言葉を普及させた功績も含め、山下達郎が代表だと思いますが、この町支寛二さんも、あの浜田省吾と結成した、「愛奴」というグループの”二人の夏”という曲でBeach Boysっぽいオープン・ハーモニーを披露しています。
1998年にリリースされたこのアルバムでは、このブログでも紹介しましたヴァレリー・カーターや”アメリカ”のジェリー・ベックレーや、今やブライアン・ウィルソンの片腕的な存在のジェフリー・フォスケットをゲストに迎え、70年代の名曲がア・カペラにアレンジされています。その中から、70年代のニール・セダカを代表するこの曲を取り上げてみました。オープン・ハーモニーの心地よい世界を堪能してみて下さい。


("If~Laughter in the Rain" by町支寛二)

(愛奴の「二人の夏」 歌っているのは誰?)

2010年2月23日火曜日

エンボス〜吉田美奈子


Artist:吉田美奈子
Album:扉の冬
Song:扉の冬











ジャケットがちょっとザラザラつく感じのレコードが好きでした、例えば、キャロル・キングの「Tapestry 」とか「Music」。エルトン・ジョンのファーストの「Elton John」,CS&Nの「 Crosby、Stills&Nash」、ニール・ヤングの「Harvest」、そして邦盤なら荒井由美の「ひこうき雲」と同じ時期にリリースされたこのアルバムです。
 「エンボス加工」というらしいのですが、見開きジャケのため、手に取るとちょっと豪華な気分がして、あの独特の手触りは絶対CDでは味わえない感覚です。たぶん制作費用がそれだけかかるので、レコード会社としては、「社運をかけて」ってところもあったのでしょう。
 それに輪をかけて、「顔の陰影ジャケ」も好きでした。特に女性物。ローラ・ニーロの「 Eli Andthe Thirteen Confession」(イーライと13番目の懺悔)やジョニ・ミッチェルの「Blue」など。

 「エンボス加工」でその上、女性の「顔の陰影ジャケ」という2つの重要な要素を兼ね備えていたわけですから、避けて通れるはずがありませんでした。

 1973年、そのころ新鋭のレコードレーベルだったショウボートからのリリースで、弱冠20才のデビューだったようで、すでにこのヴォーカルの表現力を身につけていたのですから、オドロキです。最初に聞いたのは、確か高2ぐらいでしょう、キャラメル・ママ(細野晴臣、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫)が全面バックアップしていて、荒井由美の「ひこうき雲」と同じメンツでしたが、Laura Nyroを意識した、その演奏スタイルや音響的な響きやヴォーカルの雰囲気など、こちらの方がはるかに自分の好み合っていました。演奏についていえば、細野さんのベースがすごく良くて、プレイヤーとしても、超一流だったことがよくわかります。
  この「扉の冬」という曲が今の季節にぴったりなので選びましたが、「かびん」や「週末」、「ねこ」など、のびやかなヴォーカルとマッスルショールズのミュージシャン達にひけをとらないくらいの絶妙なバッキングは、その当時の日本では、最高水準のクオリティだったと思います。三十余年たっても時々聞きたくなるアルバムはそうざらにはありません。その後のRCAレーベル時代の「Flapper」あたりにくらべるとポップス度は劣るかもしれませんが、その当時の、吉田美奈子というミュージシャンの素顔に近いのはこのアルバムだと思います。

その後、ずっとこの人を聞き続けてきましたが、2004年のDVD「within ~Vision3」もヴォーカリストとしての力量を遺憾なく発揮した名盤(CD化されていません)で是非、すべての人に見て、聞いてもらいたい作品です。



(扉の冬)

(星の海)

2010年2月18日木曜日

希望をのせた歌~村井邦彦&河邨文一郎

Artist:トア・エ・モア
Album:The Melody Maker~村井邦彦の世界
Song:虹と雪のバラード







 バンクーバー・冬期オリンピックもたけなわ、日本勢がんばってますね。しかし、世界の壁はやはり厚い。
 オリンピックのもう一つ楽しみにテーマ音楽があります。一番有名なのは、1968年2月6日から2月18日まで、フランスのグルノーブルで行われた冬季オリンピックの記録映画の主題歌だった”白い恋人たち”(13 Jours en France)。作曲はフランス映画音楽の巨匠、フランシス・レイ。監督は「男と女」「パリのめぐり逢い」「愛と哀しみのボレロ」などのクロード・ルルーシュ。この”白い恋人たち”はその当時、日本でも大ヒットしたのを憶えています。たしか小学校の高学年頃だったと思います。
 
それから4年後の1972年ついに、アジアで初めての札幌冬季オリッピックが開催されることになり、北の大地に日本中の目が釘付けになりました。

 その大会のメイン・テーマをつくることになり、白羽の矢が立ったのが、医師でもあり詩人でもあった河邨文一郎(かわむらぶんいちろう)と日本を代表するメロディー・メーカーだった村井邦彦でした。

  河邨文一郎(かわむらぶんいちろう)は東京帝国大学医学部を卒業後、札幌医大の整形外科教授を歴任し、一方で詩人の金子光晴に師事しやや難解な現代詩を書いていた異色のひと。いささか作詞家としては毛色の違った経歴の人で、作詞するにあたって、あたえられた課題が、誰もが口ずさめて、北海道の特色をいかし、なおかつ、わかりやすい言葉でかかれた詩という、頭を抱えるような難題だったそうで、約半年の間、その詩と格闘したそうです。

 一方、村井邦彦はGS時代に”エメラルドの伝説””白いサンゴ礁”。フォーク関係では”或る日突然””翼を下さい”など今や誰もが知っている国民的な歌を書いた人で、後にアルファ・ミュージックを設立し、荒井由美やYMOを世に送り出した、大プロデューサーでもあります。作曲についての課題は、オーケストラでも演奏できて、かつギター一本でもつま弾ける歌という、これもかなり難しい条件であったようです。

  そしてその二人が幾多の難問を乗り越えて、完成させたのが”虹と雪のバラード”という曲でした。この曲は最初は歌い手を決めない共作という形がとられたようですが、このトア・エ・モアのヴァージョンが一番、馴染みがあり、彼等の代表曲にもなっています。

 作曲については、今でこそ、少々古い感じがしますがその当時は、日本にもこんなメロディーが書ける人がいたんだと感激したおぼえがあります。本人は4年前にかかれた”白い恋人たち”に負けないぐらいの意気込みで書いたと後に回想していますので、村井邦彦を代表する、かなり力が入った作品になっていると思います。「オーケストラでも演奏できて、かつギター一本でもつま弾ける歌」という条件もクリアできていると思うのですが、いかがでしょう。
 そして歌詞。よく聞いてみるとなんとも気品のある言葉づかいで、いわゆる職業作家にはない「使い古されていない」言葉に好感がもてます。
 
 オリンピックには、各競技において、選手達のドラマがあるのは当然ですが、こういった音楽にまつわるドラマもあったようです。まさに国民の「希望をのせた歌」だったんですね。
 かんばれニッポン!

1.虹の地平をあゆみ出て
  影たちが近づく 手をとりあって
      町ができる 美しい町が
      あふれる旗、叫び、そして唄
  ぼくらは呼ぶ あふれる夢に
  あの星たちのあいだに眠っている北の空に
      きみの名を呼ぶ オリンピックと

     2. 雪の炎にゆらめいて
       影たちが飛び去る ナイフのように
           空がのこる まっ青な空が
           あれは夢? 力? それとも恋
       ぼくらは書く いのちのかぎり
       いま太陽の真下に
           生まれかわるサッポロの地に
           きみの名を書く オリンピックと
           生まれかわるサッポロの地に
           きみの名を書く オリンピックと



2010年2月13日土曜日

幸せのおすそわけ~Andrew Gold


Artist:アンドリュー・ゴールド
Album:All This and Heaven Too
Song:Never Let Her Slip Away









実力はあるのに、なかなか、芽が出ない人って何の分野でもいると思いますが、このアンドリュー・ゴールドさんもそんな一人。優れたSSWでもあり、プロデューサーとしても、いい作品をたくさん残しているのですが、知名度がイマイチなんですね。かえって、その器用さが、アダになっているのでしょうか。個人的には大好きなミュージシャンなんですけど。

 アンドリュー・ゴールド(Andrew Gold)
  1951年、カリフォルニアはバーバング生まれ、バーバンクといえば、WB(ワーナー・ブラザーズ)ー巨大映画音楽企業のお膝元。それもそのはず、父親は数々の映画の音楽スコアを手がけた、アーネスト・ゴールド。「栄光への脱出」では1960年アカデミー音楽賞、「渚にて」では1969年のゴールデン・グローブの音楽賞を受賞しています。母親はマイ・フェア・レディ」のヘップバーン、「ウエストサイド物語」のナタリー・ウッドなどの歌の吹き替えを担当した、マーニー・ニクソン。こんな音楽一家に生まれた、アンドリューですから、当然、音楽の道へ。そして、この時代の誰もがそうだったようにビートルズの影響は大きかったようで、その音楽に色濃く表れています。
 まずは、ケニー・エドワース、ウエンディ・ウォルドマン(この人も実力はあるのにヒット曲にめぐまれないですね)、そしてカーラ・ボノフと四人で”ブリンドル”を結成し1枚だけシングルをリリースしますが、結局ヒットにはいたらず、解散。
(後に再結成しアルバムもリリースしています。)

 その後、リンダ・ロンシュタットのプロデュースを手がけ、75年に「Andrew Gold」でソロ・デビューしています。この3rdアルバム「All This and Heaven Too」(邦題:幸せを売る男)は特に、大好きなアルバムで、なかでも”Never Let Her Slip Away”がベスト・ソングです。ポール・マッカートニーのメロディと、ビーチ・ボーイズのコーラスを併せ持ったような曲で、アンドリューのポップなセンスが充分に発揮されています。隅から隅まで、非の打ち所がありません。残念ながら大ヒットには至っておりませんが・・・。この曲を聞くとちょっと幸せな気分になります。まさにアルバムの邦題のように「幸せを、お裾分けしてもらった」ような1曲です。
 後に、10ccのグラハム・グールドマンと”WAX”を結成したり、音楽の嗜好性が多岐に渡っているため、とらえどころのない印象をうけますが、ポップなセンスは 一貫しており、最近のアルバム「 Warm Breeze」の"Where Did I Go Right "もお気に入りの1曲です。
(Never Let Her Slip Away)





2010年2月9日火曜日

無名でも~Justin Taylor

Artist:ジャスティン・テイラー
Album:From Tienie Street
Song:I Will Not Be Fine







このブログで今まで取り上げて来ましたのは、レコードなりCDなりが、ある程度、有名といいますか、ネットショップなどでも普通に入手できるものだったのですか、今回は、「あまり知られてない」と思われるアーティストを紹介しようと思います。
 知った風な事をいっておりますが、実は私も、このブログに時々、コメントくれるCantokuに2年前ぐらいに教えてもらったので、それほど詳しくはないのですが・・。

Justin Taylor(ジャスティン・テイラー)
1982年、南アフリカのケープタウンに生まれる。ということはまだ28才ですか。
7才頃、両親の都合で、ヨハネスブルグへ移り住み、14才ごろより、色々なバンドで音楽活動を始めたようです。そして20才をすぎて、アメリカでやっていこうと一大決心をして、ミュージシャンとしての成功を夢みながら、ひとりで渡米、2007年にCandyRat Recordsというインディーズレーベルからやっとデビューする。
まあこういったところです。

 しかしこのアルバムをCDという形で入手するのは、国内では難しく、i-Tuneなどの配信で有料ダウンロードするのが、一番簡単なようなのです。音楽ビジネスも様変わりしてますね。レコードやCDのコレクターという悲しい性(さが)でしょうか、現物が目の前にないというのは、どうにもガマンがなりません、CDほしさに、苦労して、CandyRat Recordsのサイトより取り寄せるというような面倒な手続きを踏むハメになってしまいました。

 アルバムは、アコースティック・ギターによるいわゆる弾き語りで、全曲粒ぞろいとまではいきませんが、数曲は”ハットする”ほどシブいギターの響きとメロディーをもっているものがあり、一度で気に入ってしまいました。

 アメリカには成功を夢見て、色々な国からやってきて、こうやってコツコツ、CDを作って、インターネット配信やYou-Tubeで流したりするミュージシャンが、ゴマンといると思いますが、このまま、南アフリカへ、失意の内に帰国させるには、あまりも惜しい、才能だと思い、将来の期待を込めて「無名でも」取り上げさせていただきました。
 なお、ほとんどの曲がYou-Tubeのアップされておりますので、以下の2曲以外にも検索してみて下さいね。よかったらあちこちで、「あのジャスティンのギターいいよね」なんて宣伝してやって下さい。(しかし、この応援、かの国まで届くことはないか・・・)

(”I Will Not Be Fine”渋いコード進行を研究するのにはコレ)

(”Cheesy Little Love Song”ちょっと小粋な口笛がイカシてます。)

2010年2月5日金曜日

コンプレックス~鈴木慶一


Artist:鈴木慶一とムーン・ライダース
Album:火の玉ボーイ
Song:スカンピン








  たまには、邦盤のものもいいんじゃないかと思いまして、1975年、鈴木慶一さんのデビューアルバムでもあり、後のムーン・ライダースの礎になったこのアルバムを引っ張り出してきました。メンバーは他にティン・パンアレーなどその当時の、トップ・ミュージシャンがこぞって参加しておりまして、まさに日本のロック史上における名盤にふさわしい1枚でございます。
(これ、デビュー直前の矢野顕子さんや南佳孝さんも手伝っています。)
 初めて聞いたのは、大学2年のころですか、たしか1978~79年ごろでしょうか、ちょっとレトロなジャケに惹かれて、多分アナログの再発盤を買った記憶があります。ジャケの秀逸さに違わず内容も、アメリカ音楽のいい部分を消化して、日本的な感覚で再構築している感じました。ヴァン・ダイン・パークスの万華鏡のようなカラフルさや、モダンさ、もっといえばその頃の”東京”という都市をレコードの中にギュッと詰め込んだアルバムだったような気がします。九州の田舎に育った私はそれが非常にまぶしく、うらやましくもありました。「コンプレックス」といえるのかどうかわかりませんが、田舎者のわたくしには、このアルバムほど、その当時の”東京”という都市を感じさせるアルバムはありません。
(今となってはそれもレトロな、懐かしい時代となってしまったのですが・・。)

 ”伽藍(がらん)とした、防波堤ごしに
  緋色の帆を掲げた都市が
  碇泊してるのが見えたんです”

 ”ひび割れた、瑠璃(ガラス)ごしに
摩天楼の衣擦(きぬず)れが、
舗道を浸すのを、見たんです”
(松本隆、はっぴえんど”風をあつめて”より)

 はっぴいえんどの”風をあつめて”は非常に洗練された、現代詩であり、ある部分”東京”を感じさせる歌詞や曲なんですが、ちょっと下町というか、平屋の屋根ごしにみるビル街って感じがするんですね。

 ”俺たちいつまでも、星屑拾うルンペン
  夜霧の片隅に、今日も吹き溜まる”
 ”俺たちいつまでも、悲しみあつめるルンペン
   破れた恋や夢を、今日も売り歩く”
(鈴木慶一、”スカンピン”より)

 一方”スカンピン”は、平素なわかりやすい言葉で書かれているんですが、そのビル街のなかで蠢(うごめ)いている人の視点から書かれたような印象をうけるんです。
 フィリー・ソウルっぽいイントロからして、何か違うんですね、その歌い方といい、都会の匂いというか、コンクリートの壁の匂いがするんです。その感覚はその当時、自分の中には、ないもののような気がしていました。

 いずれにせよ、学生の頃、酔っぱらっての下宿への帰り道、「スカンピン、スカンピン俺たちは、スカンピン、スカンピン、いつまでも」と、何回も口ずさんでいた、あの頃が懐かしく思えます。

 鈴木慶一さんは最近のアルバム「ヘイト船長とラヴ航海士」の中で、自らの人生をふりかえるようにこう歌っています。

頭の中でふるえる文字の少ない札束が
長く生きてきたお前の数少ない友人だ
価値はある
あったモノが無くなったのか
最初から 無いのか

スカンピンだ 拾う星屑あるのならば まだいい
スカンピンだ 吹き溜まる場所あるのならば まだいい
スカンピンだ 集める悲しみあるのならば まだいい
スカンピンだ 煙草一箱ほどの一生 だったかな
(鈴木慶一、”Skanpin Again”より)

 理想と現実のギャップを充分味わったこの年になってはじめて、この”Skanpin Again”の歌詞の意味がじ~んと心に響いてくるんですが、だからこそ、なおさらあの時代が輝いて見えるのかもしれません。

2010年2月4日木曜日

ヨッ!待ってました~BB.King


Artist:BB.キング&ザ・クルセイダーズ
Album:Midnight Believer
Song:Midnight Believer







2010年2月1日の記事~Tightな音~Larsen/Feiten Bandを聞いていたら、無性にこの曲も聞きたくなりました。個人的には対をなしてるんですね。
(たぶんその頃編集した、カセットテープに並んで入れていたのかもしれません)
 BB.キングとクルセイダーズの組み合わせ、一見ミスマッチとも思えるんですが、そこはバックもかなり控えめといいますか、BB.キングさんに敬意を表して一生懸命盛りたててくれてる様子がいたします。

参加メンバーをざっと、ながめてみましょう。
Joe Sample:Key
Wilton Felder:Tenor Sax,Bass
Stix Hooper:Drums
Robert "Pops"Popwell:Bass
いわゆる第2次のクルセーダーズのメンバーに
Dean Parks:G
James Gadson:Drums
などがサポートし、これにブラス隊とコーラス隊という編成になっています。
1978年のリリースですから、すでにラリー・カールトンは脱退したあとですが、BBキングとの共演も聞いてみたかったような・・・。

 歌の出だしから、ファンキーなベースライン。この微妙なリズムのうねりというか、シンコペートの具合が、たまりませんね。そして、渋いBBキングのボーカル。曲がすすむにしたがって、楽器が加わっていきドンドン音がぶ厚くなってきます。でも、それぞれのパートが決して邪魔することなく、主役を盛り上がげていきます。そしていよいよ終盤、シングル・トーンのギターソロ。この辺で「ヨッ!待ってました」と声がかかりそうですね。ニクイですね。聞かせ処を熟知してますね。やはり風格といいますか、オーラが違いますねこのギター・ソロは。
  BBキングのそれこそ星の数ほどあるブルースの名盤アルバムにくらべれば、どっちかというとキワモノに近いのかもしれませんが、バンド構成でやるファンキーなブルースの典型みたいな曲だと思いうんです。でもこれをどっかのバンドが完コピーしても、やはりなんか足りないでしょうね。やはり千両役者のオーラがないとね。

2010年2月2日火曜日

ひとり感~Tracey Thorn,Ben Watt


Artist:トレイシー・ソーン
Album:A Distant Shore
Song:Night And Day(Bonus Track)










Artist:ベン・ワット
Album:North Marine Drive
Song:You're Gonna Make Me Lonesome When You Go








2010年1月5日の記事~ふたり~Simon & GarfunkelでEverything But The Girl(エヴリシング・バット・ザ・ガール)について、ちょっと紹介しましたが、この二人、実は結成する前に、それぞれソロ・アルバムをリリースしていました。その2枚のアルバムに共通していていたのは、静寂な夜に溶け込むような”ひとり感”でした。それは1980年代のイギリスの「ハードコア・パンク・ムーブメント」の中にあって、「叫び」や「喧噪」でカラカラになった喉を潤す一服の清涼剤だったと思います。共通した”ひとり感”をもっていた二人はまるで磁石に吸い付けられるように、出会い、そしてエヴリシング・バット・ザ・ガールを結成します。
  
トレイシー・ソーン Tracey Thorn
   1962年9月26日生まれ。イギリスのロンドンに隣接するハートフォード州のハットフィールドで育ち、ハットフィールド・ガール・スクールに通っている時に同級生らとザ・スターン・ポップスという女の子ばかりのグループを結成し、歌い始めた。トレイシーと同級生のジーナとジェーンの3人にジェーンの妹アリスが加わり4人組になった時にバンド名をマリーン・ガールズと改める。
  こうして活動を続けたマリーン・ガールズだが、途中ジーナが脱退し、トレイシーも大学に入学したために夏休みだけの活動となってしまった。その頃はまだ、インディーズ・レーベルだったチェリー・レッド・レコードと契約を交わすことになり、マリーン・ガールズに先駆けトレイシーのソロアルバムを作ることになった。アルバムのタイトルを「Nothing but the girl」(何やっても駄目な僕だけど、この娘だけは僕の側に居てくれるんだ という名前)にしようとしていたそうですが、これはちょっと出来すぎた話とも思えます。ともあれ、これが「遠い渚/A Dsitant Shore」という8曲入りミニアルバムとなって1982年に発表され、マリーン・ガールズとしては1983年「けだるい生活/Lazy Ways」を発表しました。

ベン・ワット Ben Watt
 1962年12月6日生まれ。イギリス、ロンドン出身。ジャズ・ピアニストのトミー・ワットを父親に持ち、幼少の頃から音楽に親しんでいた。ハル・ユニヴァーシティに入学し、チェリーレッド・レーベルと契約して、シングル“Cant”及びミニアルバム“Summer into Winter”を1982年に、アルバム「ノース・マリン・ドライブ」を1983年に発表した。このアルバムは前出の「遠い渚」や「けだるい生活」と共に“New Sensivity”と呼ばれ、フォーク、ジャズ、ボサノバのエッセンスを取り込んだ新感覚のアコースティック・サウンドのポップスとして一部で人気を集め、インディーズ・チャートの上位をキープした。
とあります。

 今回、取り上げた2曲はオリジナルではなくカヴァー曲。トレイシーの方は、コール・ポーターの有名なジャズのスタンダード・ナンバー。ベンの曲はボブ・ディラン作で原曲はかなりラフなフォークソングです。アルバム「遠い渚/A Dsitant Shore」のボーナストラックとして収録された”Night and Day”で初めて二人が一緒に演奏しそれをきっかけにエヴリシング・バット・ザ・ガールが結成されたそうですので、記念すべき一曲ということになります。(→2010年1月5日の記事~ふたり~Simon & Garfunkelも見てね)

  どちらも、ボッサノヴァのリズムを基調にしたシンプルなつくりですが、ギターのバックのみで歌われるからこそ、ピーンは張り詰めたような、寂寥感ー”ひとり感”が胸をうつのかもしれません。



Ben Watt-"You're Gonna Make Me Lonesome When You Go"


2010年2月1日月曜日

Tightな音~Larsen/Feiten Band


Artist:ラーセン・フェイトンバンド
Album: Larsen/Feiten Band
Song:Who'll Be the Fool Tonight

 







「この曲もう少しタイト(tight)な音にしたいね」などということがありますこのtightな音って具体的にいうとどんな音なんでしょうね。Neil LarsenとBuzz Feitenの双頭コンポだったこのバンドのこの曲が、個人的には「タイト(tight)な音」って感じがするのですがいかがでしょうか。

 Neil Larsenはキーボート奏者。1948年8月7日、クリーブランド生まれ。一方、Buzz Feitenはギタリスト、1948年11月4日、シカゴに生まれる。この二人同じ年の生まれ、いわゆる同級なんですね。1968年ウッドストックで知り合って、意気投合した二人は、フィリップ・ウィルソン、ブラザー・ジーン・ディンウィディ、フレディ・ベックマイヤーを加え、72年に伝説のバンド、フル・ムーンを結成し「Full Moon」というアルバムをリリース。このアルバム長い間、コレクターズ・アイテムで、幻のアルバムだったのですが(かなり入手するのに苦労しました)2000年頃にめでたく日本で初めてCD化され、今では、紙ジャケでも聞けるようになりました。
 その後、二人は1978年頃より、ニール・ラーセンのソロ・アルバム「ジャングル・フィーバー」や「ハイ・ギアー」で共演し、1980年にこの「ニール・ラーセン&バジー・フェイトン」と二人がメインとなり、1982年には再び、フル・ムーンというバンドとして「フル・ムーン・フィーチャリング・ニール・ラーセン&バジー・フェイトン」を発表しました。当時、この一連のアルバムはAORやフュージョンのファンの間では特に人気があり、個人的にもこの4枚はよく聞いていました。特にニール・ラーセンのソロ・アルバム2枚は哀愁のあるニール・ラーセンのハモンド・オルガンにバジーフェイトンの泣きのギターが絡んできて、インストでも聞かせどころ満載でした。後の2枚ではバジーがボズ・スキャグスばりの渋いヴォーカルを披露、「ギターだけじゃないよ」ってところを、みせてくれました。
 2002年には、バジー・フェイトン&ニュー・フル・ムーン名義で『フル・ムーン・セカンド』を発表。残念ながらニール・ラーセンは参加していませんが、相変わらず、かっこいいギターを弾きまくっています。
 しかしこの二人、1980年当時、売れっ子セッション・ミュージシャンだったようで、リッキー・リー・ジョーンズのデビュー・アルバムや2010年1月20日~サウダージ~の記事でも紹介しました、スティーブン・ビショップのアルバムなど多数のアルバムにクレジットされています。

 その後、バジーはギタリストにとって永遠の悩みであったチューニングの音の微妙なズレを完全に補正する、BUZZ FEITEN TUNING SYSTEMというギターのチューナーを独自開発し、商品化しており。これはすでに特許をとっているようで、ミュージシャンよりは実業家として成功しているようです。だぶん、この特許のおかげで、左うちわで一生暮らせるのではないかと思いますが。ギタリストの方で完全なチューニングを目指して入る方は”BUZZ FEITEN TUNING SYSTEM”で検索してみて下さい。
(ギターって音響的には不完全な楽器だったんですね。)