2011年4月26日火曜日

追悼:田中好子さん〜浪夢

Artist:浪夢
Song:日だまり

 すでにTVなどでご存じのことと思いますが、女優の田中好子さんが乳がんのために4月21日に死去されました。相棒のY氏がFace Bookで紹介していたように浪夢のリード・ギタリストであり、弟でもある伊崎健太郎(以下I.Kと略)が監督したテレビドラマに幾度となく出演していただき、バンドの練習の合間にいかに素晴らしい女優さんであり、人間的にも尊敬できる方だったことを聞いていましたで、お会いすることはなかったものの、とても他人事とは思えませんでした。

I.Kが監督した田中さん出演の作品を挙げると、

火曜サスペンス劇場「あのひとの髪」
放送日:2001年5月8日(火)日本テレビ
火曜サスペンス劇場「あのひとの匂い」
放送日:2002年4月30日(火)日本テレビ
火曜サスペンス劇場「料理講師 奥瀬かほり」
放送日:2003年9月 2日(火) 日本テレビ
冬のドラマスペシャル「柳川・雲仙~想い出の郷土料理」
(料理講師 奥瀬かほり2) 日本テレビ
放送日:2005年12月26日(月)
ローカル・ドラマでは
FBS 24時間TVドラマスペシャル「瞳スーパーデラックス」
放送日:2006年 8月26日(土) FBS
FBS 24時間TVドラマスペシャル「私は一本の木に恋をした」
放送日:2008年 11月16日(日)FBS

特に2001年の「あのひとの髪」は弟にとってもFBS(福岡放送)でのドラマ制作の第一歩であり、日テレの火曜サスペンス劇場という大きな仕事だったので、家族全員で、我がことのようにドキドキしながら見たものでした。田中好子さんが妻で川島なお美さんが夫の愛人という役柄で、ドラマの中で対立する場面があり女同士の対決シーンで、お互いを「ビンタ」する場面があったのですが、本気の「ビンタ」応酬の凄まじさに画面に釘付けになったのを憶えています。数日はお互い頬の腫れがひかなかったらしく、本当の女優魂を感じたと言っていました。すべての撮影を終えて打ち上げをした天草の旅館での出来事。撮影の前からマネージャーに「キャンディーズ」の話は封印して下さいと言われていたそうで、絶対その話はしないつもりだったそうですが、撮影終了の達成感もあったのか、場を盛り上げようと田中さんがカラオケで「キャンディーズ」メドレーを自らすすんで歌って下さったそうで、思っても見なかった大宴会となったそうです。あんなに楽しかったことはなかったと話してくれました。この事は川島なお美さんも忘れることができない出来事だったらしく、自身のブログでも取りあげています。(→「田中好子さんのこと」
 
 誠実な人柄、演技にかける情熱に魅了され、それ以後、I.Kのほとんどの作品に出演していただくことになりました。一作一作を楽しみにしていた父は2002年に母も2007年に他界しましたが我が家にとって田中好子さんはかけがえのない女優さんでもありました。そしてI.Kにとっては一緒にキャリアを積み重ねていった戦友のような存在であったようです。

最後にI.Kからのメッセージがとどきましたので掲載させていただきます。

「スーさんとのエピソードは数えきれません・・・・
今だ、状況が把握できてなくがんで亡くなったことを受け入れられずにいます。

“女優”・・・という職業は様々なタイプがいますが、その中でも秀逸の女優でした。
スーさんがいつも職業のなかに追及していたのは“気持ち”でした。
この“気持ち”を一体どう持ち続けるか?
それは、キャンディーズというアイドルグループからの出発という光と影がいつもあったような気がします。

天草の宴会場で歌ってくれたキャンディーズメドレー・・・
娘のがんを告知された母を演じる“気持ち”の追及・・・
自殺をする夫の死を受け入れる妻の““気持ち””・・・
親友の裏切り・・・老いに対する問題・・・

社会にある様々な問題に直面する人が抱える“気持ち”を追及していく・・・
これらすべてが、病気と戦っているときに行われていたことがたまりません・・・。

瞳スーパーデラックス」の出演依頼をしたときは、実弟さんが主人公と同じ、骨肉腫で亡くなっていたと知らず、彼女は“がん”を見つめる役はお断りしているということを聞き、あわてて福岡に舞い戻りました。
しかし、田中さんからすぐに電話をもらい快諾していただきました。
その時に、「これは私の“使命”だから」と言った言葉が今でも忘れられません。

今日、葬儀の席で亡くなる前の肉声が流されました・・・
田中さんがいつも心の中に持ち続けた“社会貢献”をまた、肉体をなくしても始めようとしていると感じました。心からご冥福をお祈り申し上げます。
震災で失われた多くの御霊と、気高く、透明で、純粋な魂を持ち、ドラマの中で一緒に戦った同士でもあった女優田中好子に謹んで、“日だまり”を贈ります。」

(”日だまり”オリジナル曲By 浪夢)

(”日だまり”(inst.version)オリジナル曲 By 浪夢)

2011年4月20日水曜日

見知らぬ手と手~Epo

Artist:エポ
Album:WICA(ウィカ)
Song:見知らぬ手と手

 「情けは人の為ならず」ということわざがあります。このことわざの意味を「情けをかけることは、結局はその人のためにならない(のですべきではない)」と解釈している人が意外に多いそうです。
本来の意味は「情けは人のためではなく、いずれは巡って自分に返ってくるのであるから、誰にでも親切にしておいた方が良い」ですが、英語にも「A kindness is never lost」(親切は決して無駄にならない)という表現があったり、聖書にも「して欲しい事を他人に為せ」という黄金律があるそうです。
人間がすべき道義の一つとして、この教訓があるんですね。

震災に対する支援は、このことわざの本来の意味をもう一度思い起こさせてくれます。私が住んでいる島原半島の島原市、深江町も過去に「雲仙普賢岳噴火災害」があり、平成3年6月3日には火砕流のため多くの命が失われ、終息するまでの約4年間でたくさん家屋が倒壊し、田畑は土石流のため押し流され、何百という家族が避難生活を余儀なくされました。時間は要しましたが、それから立ち上がり、今は平穏な生活を取り戻しています。それまでに、全国から沢山の支援をしていただきました。そしてその時に受けた「恩返し」をしたいと、今回、現地に行かれた方もいます。「恩返し」をしたいそういう気持ちがあって、見知らぬ手で届けられた思いが、また次に引き継がれていく。そして、日本だけではなく世界中に同じ意味の言葉があるように、海外の人達もその思いをもって、実際色々な国からボランティアとして参加してくれています。今までに日本から海外へ行き、戦争や貧困の中で苦しんでいる人々へさしのべられた暖かい心。これが「見知らぬ手から手」へ運ばれ、今度は日本に戻ってきているのかもしれません。
 
 そんな事を考えながらEpoさんの”見知らぬ手と手”を聞いています。この曲が生まれるきっかけとなったのが、電車でたまたま見かけた、海外青年協力隊(JICA)のポスターだったそうです。人を突き動かす感動というは、何気ない風景や日常の言葉の中にもあるんですね。大事なのは、見る側にそれを読み取れる感受性があるかどうかなんですね。

Epoさんは1980にデビューCMソングなどのヒットでJ-Popを代表するポップス・シンガーと呼ばれていました。そんなパブリック・イメージに疑問を持ち1987年に突然、渡英。自分がほんとうに歌いたいことが何かを見つめ直すためだったようです。後に「風が吹いても、雨が降っても、揺れないもの。自分のアイデンティティに立ち返った音楽を1回やっておく必要があると思った」と述べています。
帰国後、セラピストの資格を取得。障害者・老人・子供向けのワークショップをおこなったりや心理カウンセリングを行うなど、音楽の世界にとどまらない社会的な広い視野に立った活動を積極的におこなっています。
1992年にこのアルバム「WICA(ウィカ)」は、音楽的にも転機となったアルバムでこの”見知らぬ手と手”を始め、人の死をみつめた”百年の孤独”など、社会や人生に対して深い洞察力を通して書かれた歌詞には、歌として伝えたい事が、それ以前のアルバムにくらべより鮮明になっているように思います。

今回の震災後も、いち早くチャリチィー・ライブを敢行されていて、その二日間のLiveの模様をそのままCDとして発売し、その収益を義援金として寄付されるそうです。興味のある方はこちらをご覧下さい。→EPO Music Temple 東北関東大震災復興支援Live

この歌詞と同じ気持ちで日本から旅立ち、海外で支援活動をされて来た方々、そして今、現地で被災者とともに黙々と復興に向けて支援されている方々に感謝を込めて、この曲を届けたいと思います。 

握りしめた、見知らぬ手の温かさ、その時に湧き上がってくる感謝や勇気が、沢山の人に伝わり悲しみを越えることのできるほどの大きな力となっていきますように。


2011年4月14日木曜日

虹の袂そして希望~Rickie Lee Jones

Artist:リッキー・リー・ジョーンズ
Album:Girl At Her Volcano
Song:Rainbow Sleeves

 大好きなSSW、酔いどれ詩人トム・ウェイツの曲の中に、ある人のために作った曲があります。そしてかつてこの二人は恋人の関係にありました。
タイトルは”虹の袂(たもと)-RainbowSleeves"。そう、歌っているのはリッキーリー・ジョーンズ。この数日、この曲に囚われています。
その曲は静にこんな歌い出しで始まります。

Rainbow Sleeves
(by Tom Waits 1978)

You used to dream yourself away each night
To places that you'd never been
On wings made of wishes
That you whispered to yourself
 自分がささやく望みでできた翼に乗って
行ったことのないところに飛んでゆく夢を
君はいつも見ていた

Back when every night the moon and you
Would sweep away to places
That you knew
Where you would never get the blues
決して憂鬱を感じないとわかっているところへ
夜ごと、月と君が運ばれていっては戻ってくる

Well now, whiskey gives you wings
To carry Each one of your dreams
And the moon does not belong to you
今や君の夢を運ぶのは、いつもウィスキーにもらった翼で
月もすでに君のものではない

But I believe
That your heart keeps young dreams
Well, I've been told
To keep from ever growing old
And a heart that has been broken
Will be stronger when it mends
でも君の心は若いころの夢をもちつづけていると私は信じている
絶対に年をとってはいけないと私は云われてきた
そして、傷ついた心は癒された時、さらに強くなると

Don't let the blues stop you singing
Darling, you've only got a broken wing
憂鬱のせいで歌うのをやめたりしないでくれ
君は翼が片方折れただけなんだよ
Hey, you just hang on to my rainbow
Hang on to my rainbow
Hang on to my rainbow sleeves
だから、私の虹につかまってくれればいい
私の虹にしっかりつかまって
虹色のたもとへ連れて行こう

 このブログで取りあげたことのあるトム・ウェイツ(→夜をさすらう者たち)は16才で高校を中退し1970年頃、LAへやってきました。ピザ屋の店員として働きながらその合間に曲をつくりSSWとして成功する事を夢見ていました。嗄れた歌声、Jazzyなピアノ、しがない人々の心情をユーモラスに描きながらも温かい視線で見つめる独特な歌詞世界はすでにデビュー前に完成しています。(この頃の音源は1990年代にリリースされたコンピレーション・アルバム『アーリー・イヤーズVol.1』『アーリー・イヤーズVol.2』で聞くことができます。)そして1972年、当時はまだ新興レーベルだったアサイラム・レコードと契約し、1973年にアルバム『クロージング・タイム』でデビュー。商業的には成功とはいかなかったものの、同作収録曲「オール'55」が、イーグルスに取りあげられるなどして徐々に注目されるようになります。
一方リッキー・リー・ジョーンズも19才で家出をして、LAへやってきました。彼女は、住む家もないまま、ウェイトレスとして働き、LAの市内各地のコーヒー・ショップなどで歌いながらチャンスを探し、待ち続けました。そんなある日、L.A.でも有名なクラブ、トルヴァドールで歌うチャンスを得ます。その時、その店のキッチンで働いていたのが、後の彼女の大ヒット曲「恋するチャック」のモデルとなったチャック・E.ワイズでした。チャックは自分の友人であるトム・ウェイツを彼女に紹介し、そして二人は恋に落ちました。
トムのアルバム『異国の出来事』(1977年)、『ブルー・ヴァレンタイン』(1978年)にはトムとデビュー前のリッキー・リーとの2人の写真がジャケットに使われています。しかし幸せな生活も長くは続きませんでした。皮肉なことに彼女の作った”イージー・マネー”という曲がリトル・フィートを脱退し、ソロ・アルバムを制作中だったローウェル・ジョージの耳にとまりアルバムに採用。彼女の名は一気にL.A.中に広まりました。ワーナーのテッド・テンプルマンとレニー・ワロンカーという大物コンビが、さっそく彼女を訪れ、あっという間に契約話しもまとまり、デビュー・アルバム"Ricky Lee Jones 浪漫"(1979年)が発売されます。そしてグラミー賞を受賞。彼女はスターダムへの道を歩き始めます。二人の間に何があったかはわかりませんが、この時二人は別々の道を選択することになります。(この時の別れを情景をトム・ウェイツは後に”ルビーズ・アームズ”という美しく切ない曲にしています。)

そして二人の思い出の曲としてこの”虹の袂(Rainbow Sleeves)"が残されることになりました。リッキー・リー・ジョーンズの2ndアルバム「パイレーツ」(PIRATES)でサブタイトルをSo Long Lonely Avenueとしていますが、これはトム・ウェイツと別れ、ロスを離れニューヨークへと向かうリッキー・リー・ジョーンズの心情が表されていると言われています。そしてその表題曲にはこんな一節があります。"So I'm holding on to your rainbow sleaves"(あなたの作った「虹の袂」を忘れない)と・・・
そしてその約束を果たす様にアルバム「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」(原題:GIRL AT HER VOLCANO)には「虹の袂」が収録されています。録音は1978年12月4日。つまり二人がLAで暮らしていた、まさにその頃にレコーディングされていたのです。

悲しい別れの後の思い出の曲でありながら、この曲には希望があります。傷ついた心=壊れた翼をもった19才の女の子は、彼のこの曲で少しずつ成長しながら力強く立ち上がり、希望=虹の袂への道を歩き出したからこそ、この曲のもつ切なさがなおさらに心に浸みてきます。

 今度の震災で多くの命が失われました。きっといつか失われた命が、僕等がかつて見た「虹の袂」(→素晴らしい虹)のように希望と幸せを与えてくれることを信じながら、この曲を繰り返し聞くことにします。

(Rainbow sleeves (written by Tom Waits) by Ricky Lee Jones)

2011年4月6日水曜日

No Nuces~John Hall

Artist:ジョン・ホール
Album:Power
Song:Power

 復興に向けての槌音が響いてきました。まだ微かですが、やがて大きな響きとなって希望の光となることを心から祈っています。今回の震災、さらに問題を複雑にしているのが、原発です。日本の繁栄を謳歌するばかりで今まで、エネルギーのことを自分の事として考えていなかったことに反省しております。当面は今ある汚染問題を一刻でも早く終息させることが、日本国民すべての願いですが、今度のことでエネルギーに関する今後のことをどうしていくべきか、我々も考えていかなければならないと思っています。
 世界一安全だと言われていた日本の原発も自然の猛威の前では無力でした。そしてなにより核エネルギーが恐ろしいのは、ある時点から人間がコントロールできなくなるということです。今回のことは確かに天災という予期できないことで起こった事故ですが、その後の対策や処理に関しては一歩間違うと人災と言われかねない状態になっています。今や日本だけの問題ではなくなってきています。風や海には国境はありません。食物連鎖の中で我々は生きているということを改めて思い返してみるとき、この問題に無関係でいることはできないのです。むろん、最前線で放射線の脅威にさらされながら命がけで作業されている人がいることを決して忘れてはなりませんがコントロール不能に陥った原発がどんなものなのかをしっかりと目に焼き付けておく必要があります。

 アメリカは過去に原発の脅威を体験しています。1979年におこった、スリーマイル島の原発事故です。最終的に発表された見解は、「発電所から10マイル以内に住む住民の平均被曝量は8ミリレムであり、個人単位でも100ミリレムを超える者はいない。8ミリレムは胸部X線検査とほぼ同じで、100ミリレムは米国民が1年で受ける平均自然放射線量のおよそ三分の一だ」ということで終わってしまいましたが、それでも見えない放射線に対する脅威はその後、反原発の運動のうねりとなっていきました。そしてミュージシャンの中でも「MUSE (Musicians United for Safe Energy) = 安全なエネルギーを求めるミュージシャン連合」がグラハム・ナッシュやジャクソン・ブラウンの呼びかけで結成され、 9月には 「No Nukes」 と題された 5日間のコンサートが行われました。私も、その頃このLiveアルバムを聞いてはいましたが、その主旨を本気で考えていたとは言えませんでした。
オーリアンズに在籍していたJohn HallはこのMUSEの中心的な役割をはたし、この「Power」という曲で私達に問いかけていました。ほんとうに私達にとって必要なエネルギーは何なのかを

「Power」
僕に少しだけ太陽の力をください
絶え間ない滝の流れの力をください
土に帰る生きとし生けるものの魂を分けてください
僕に少しだけ休みなく吹き続ける風の力をください
燃え上がる勇気のような木の炎をください
でもどうか原子力の毒の力は捨て去ってはくださいませんか

誰だって何らかの力を必要としています
暗闇や寒い風から身を守るために
それが売り買いされるときは
誰かがそれを制御する方法を探すことになるのでしょう

でも僕は知ってます
生き物が危機に陥っていることを
この目の前の君たちと僕らの子孫
得るものが多ければ失うことも多いもの
僕たちは誰だって選択をしなければならないのです

僕に少しだけ太陽の力をください
絶え間ない滝の流れの力をください
土に帰る生きとし生けるものの魂をください
僕に少しだけ休みなく吹き続ける風の力をください
燃え上がる勇気のような木の炎をください
でもどうか原子力の毒の力は捨て去ってはくださいませんか

僕に少しだけ太陽の力をください
絶え間ない滝の流れの力をください
土に帰る生きとし生けるものの魂をください
僕に少しだけ休みなく吹き続ける風の力をください
燃え上がる勇気のような木の炎をください
でもどうか原子力の毒の力は捨て去ってはくださいませんか

どうか私たちのためにお願いします
原子力の毒の力は捨て去ってはくださいませんか

どうか私たちのためにお願いします
原子力の毒の力は捨て去ってはくださいませんか


この歌詞は私達に、静に語りかけています。
「原発と共存して生きていく覚悟はあなたにありますか?」と。
YesかNoかそれとも第三の選択肢があるのか、一人一人が答えを出さなければいけない所まできています。

(”Power" by John Hall)

("no nukes" 我々の問題として・・・)