2011年3月30日水曜日

心のケア〜Roger Nichols & the Small Circle of Friends

Artist:ロジャー・ニコルズ&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズ
Album:Full Circle
Song:Let Me Be The One

  被災地および被災者の方々への支援の輪が日本中で広がっています。今、一人一人が自分ができることを考えています。まだ、長い復興の道のりは始まったばかりです。長期にわたる支援が必要だと考えます。
 日本が一丸となれば乗り越えられないことはないそう信じています。水道の水も安全に飲める環境にあるのですから、少々のことは我慢です。
 
 大きな災害や悲惨な出来事に人が見舞われると、精神的には”解離"という状態になります。解離症状(解離現象)とは、『意識(自己同一性)・記憶・感情・知覚・思考といった自我機能の統合性』が障害されて、まとまりを失っている心理状態を意味します。分かり易く言うと『頭がぼんやりとして、靄(もや)がかかったような感じ。今にも眠ってしまいそうな意識が遠のいている感じ。周囲の他者や世界のリアリティが弱くなって、自分と世界が切り離されているような夢見心地』といった『ぼんやりとした現実感の薄らいだ感覚』のようです。これは自己防衛本能の働きによるもので、日常の覚醒水準を引き下げたり、過去の記憶を思い出しにくくすることによって苦痛や不安を和らげようとするためだそうです。
その後、劇的な災害の体験を共有し、くぐり抜けてきたことで、被災者同士が強い連帯感で結ばれ、自己を襲った現実を否定する機制が働いているために、自分の為ではなく、譲り合い、他者の為に懸命に尽くそうとする心理状態になり、みんなで支え合い被災地全体が暖かいムードに包まれるようになる”ハネムーン期”という状態になります。

しかし、ライフラインが復旧し、仮設住宅が整備され生活が安定すると、解離状態が、徐々に解け、現実と対面にしなければならなくなります。この時期は”幻滅期”とよばれ、報道もあまりされなくなる頃で、取り残されたような孤独感と無力感・倦怠感にさいなまれるようになるようです。援助の遅れや行政の失策への不満ややり場のない怒りにかられ、けんかやトラブルが起こりやすく、自分の生活の再建と個人的な問題の解決に追われるため、地域の連帯感は失われる場合があるようです。

そして、復旧が進み、生活の目処頃がたち始める頃、再建する手応えを感じ地域づくりに積極的に参加していく”再建期”になっていきます。ここに至るまで数年を要するとされています。支援は長く継続されていかなけば意味がありません。

今後の道のりは、我々の想像できないくらいの過酷なものです。物的、金銭的支援も大事ですが、今後は心のケアが必要になってくると思います。
 心を落ち着かせ、リラックスできる方法として音楽があります。できるだけ希望が持て、あたたかく包んでくれるような音楽がいいと思い、この曲を選んでみました。カーペンターズのヴァージョンがなんといっても有名ですが、作者であるボール・ウィリアムスやロジャー・ニコルスのヴァージョンも捨てがたい魅力があります。この歌の歌詞のように「我々の心は被災者の方々と共にある」そう思っています。このプログで取りあげる音楽で、ほんのちょっとでも心が癒されることがあれば幸いです。

 Let Me Be The One(あなたの影になりたい)

Some sleepless night
if you should find yourself alone
一人きりで 眠れない夜は

Let me be the one you run to
Let me be the one you come to
When you need someone to turn to
Let me be the one
僕のそばにおいで
僕を選んで
誰かに頼りたいのなら
僕を頼りにして

To set things right
When this whole world’s turned upside down
混乱した世界を
正してくれる誰かが必要なら・・・。

Let me be the one you run to
Let me be the one you come to
When you need someone to turn to
Let me be the one
僕のそばにおいで
僕を選んで
誰かに頼りたいのなら
僕を頼りにして

For love and understanding, to find a quiet place
For silent understanding, a loving touch
愛と理解を求めているのなら
安らげる場所が欲しいのなら
わかり合える関係と
優しさを求めているのなら

Come to me
when things go wrong
And there’s no love to light the way
僕のそばにおいで
何もかもうまくいかないなら
君を導く愛が必要なら・・・


Let me be the one you run to
Let me be the one you come to
When you need someone to turn to
Let me be the one
僕のそばにおいで
僕を選んで
誰かに頼りたいのなら
僕を頼りにして

(残念ながらこの音源はありません)

(Let Me Be The One by Carpenters)

(Let Me Be The One by Paul Williams)

2011年3月18日金曜日

スマイル~Ann Sally

Artist:アン・サリー
Album:Voyage
Song:Smile

 TVから流れてくる画面を見て、誰もが言葉を失ってしまうような衝撃を受けられた思います。一瞬の間にすべてを失ってしまった現状をまだ受け入れることができないと被災者の方がおっしゃってました。そうだと思います。私も同じ立場だったら、現実を受け入れることなどとても無理です。行方不明の息子の名前をレポーターに聞かれ、「名前を言ってしまうと、息子が帰ってこなくなってしまうような気がする」と言って、顔を手で覆い、瓦礫の中を何度も立ち止まり、安らかに暮らしていた、僅かな痕跡を探し求めている母の姿。痛いほどその気持ちが伝わってきて胸が張り裂けそうになります。

謹んで東日本大震災で亡くなられた方の冥福と、避難された方々が一刻も早く、安心できる生活がおくれるようになりますようにお祈り申し上げます。

ずっと報道を見ていると、あまりの現実の惨さに、だんだん自分が無気力になってきました。正直いって、このブログを書く意志もなくなりかけていた時、避難所で懸命に頑張っている、中学生の少女の報道を見て逆に勇気をもらいました。たぶんウチの娘と変わらないぐらいの娘さんです。避難所で暮らす赤ちゃんのためにミルクを作ってあげたり、おむつは配布したり、行方探す人達に避難所の中を案内したりする姿に、ほんとうに頭が下がります。「じっとしていると、不安になってくるので誰かの為に動いていた方がいいんです」と屈託のない笑顔をみると、何も被害を受けなかった我々がまず、平常に生活をして、冷静にならなければと思うようになりました。ほとんどの日本国民が自分にできることがあれば協力しようという気持ちになっています。むろん、現地にいって直接手をさしのべることは、ほんとうに崇高なことです。一番大事なのは、被害のなかった我々が、精神的に健全であることだと思います。今の自分の日常を精一杯生きることが、ひいては、被災者の方々を勇気づけることになるような気がします。
 今後、被災者の方々には、現実を受け入れるという我々には想像もつかない途方もない壁が立ちはだかっています。まずは今の劣悪な避難生活を少しでも改善する手立てが必要です。その内じっと見守ってあげることが必要な時期がくるかもしれません。浮き足立たず冷静になることをあの少女に教えてもらった気がします。
いつか本当の笑顔が、あの少女にもどってきますようにこの曲を送りたいと思います。

スマイル  byCharlie Chaplin

微笑んでみて つらくても
微笑んでみて 傷ついていても
空が雲に覆われていても
きみなら越えられる
恐れや悲しみを越えて 微笑むならね
微笑んでみて 明日にはきっと
また太陽が輝きだす
君のために  

今ある喜びで笑顔を輝かせて
全ての悲しみの跡をかくして
涙にぬれていても
きっとすぐそこにあるよ
今は試す時なんだ
微笑んでみて 涙にくれそうな時も
君はきっと日々の価値に気付くはず
君が微笑みを忘れないなら

(”Smile" By Ann Sally)

2011年3月9日水曜日

アレンジについて~Ruby and The Romantics

Artist:ルビー&ロマンティクス
Single:Hurting Each Other c/w Baby I Could be So Good at Lovin' You / USA / A&M 1042
Song Hurting Each Other

 先日、何気なくNHK-BS見ていましたら、カーペンターズの特集をやってました。「カーペンターズ~その栄光と影」の題名のとおり、華やかな活躍の事だけでなく、デビュー当時のふたりの葛藤やカレンを死に向かわせた拒食症のことなどを兄のリチャードが語っていたのですが、その中で、「自分はアレンジャーとしては自信があったが、カレンのようなヴォーカルを持てなかった。その代わりにカレンの音域や雰囲気に合う曲を選び、そしてカレンのヴォーカルが最大限に生かせるアレンジを心がけた」というような事を述べていました。聞いてピ~ンときた曲は、カーペンターズがやるとすればこういう曲になるという、アレンジが瞬時に頭の中に浮かんでいたそうです。その一例が、「愛のプレリュード」(We've Only Just Begun)だったようで、今でこそ、ポール・ウィリアムズ&ロジャー・ニコルズの名コンビの代表作ですが、当時はTVで銀行のコマーシャル・ソングにやっと採用された程度で、注目されることもありませんでした。かなり癖のあるポール・ウィリアムズの歌い方にも関わらず、この曲にビ〜ンときたリチャードの慧眼には、敬服いたします。これは後の話ですが、この銀行CMを聞いてリチャードはすぐ、ポール・ウィリアムズ連絡をとり「シングルにしたいんだけどフルバージョンはあるか」と尋ねたところ、「フルバージョンはすでにある」とポールは答えたそうです。実はそんなものはなく、CMに使用された以外の部分を慌てて作ったそうで、もし、「フルバージョンはまだない」と言っていたら、あの名曲は違うものになっていたかもしれませんし、後にこれも大ヒットした「雨の日と月曜日は」(原題:Rainy Days and Mondays)もカーペンターズが歌ってなかったかもしれません。まさにポール・ウィリアムズ&ロジャー・ニコルズにとっては運命の一言だったようです。

 この曲と同じように、リチャードのアレンジが光る一曲が、今回取り上げた
「Hurting Each Other」です。この曲はGary Geld & Peter Udellという作曲家コンビの作品で、Ruby and The Romanticsの69年にリリースしたシングルがオリジナルと思っていましたが、Jimmy ClantonとThe Guess Whoの前身バンドであるChad Allan & The Expressionsが共にすでに、65年に発表していたようです。どちらが本当のオリジナルかというと、アデル/ゲルドがプロデュースしているのがJimmy Clantonの方ですから、これがオリジナルということになると思います。カーペンターズがこの曲をとりあげたきっかけは、リチャードがA&Mの倉庫で曲を漁っている時に見つけたとか、Ruby and The Romanticsがこの曲をレコーディングをしている所に、リチャードがたまたま、居合わせたとか言われていますが、この3つの音源を改めて聞いてみる(下の音源を実際、聞いて見てください)と、カーペンターズのヴァージョンはJimmy Clantonのヴァージョンにかなり近いと思います。それから類推すると、リチャードはRuby and The Romanticsのヴァージョンではなく、オリジナルのJimmy Clantonのヴァージョンを参考にした可能性が高いと思われます。アデル/ゲルドのコンビについては、達郎さんのサンデーソング・ブックでも特集されていたことがあり、その時もこの曲についても{ジミー・クラントンのヴァージョンを聴いてないとカーペンターズのヴァージョンは出て来なかったんじゃないか」と確か言ってました。こんな推理をするのも、アレンジの楽しみ方の一つなんです。

カーペンターズ・ヴァージョンもさすがなのですが、この曲は他のアーティストにもカヴァーされていて、他にもLittle Anthony & The Imperials、B.J. Thomas、Jeffrey Foskettなどがあります。個人的には、どのヴァージョンより、このRuby and The Romanticsのヴァージョンが大好きです。ボサノバタッチの出だし、「Our Day Will Come」にも出てくる「魔法のオルガン」、アレンジはあのニック・デカロ。A&Mではサンドパイパーズ、クリス・モンテス、クロディーヌ・ロンジェ、ロジャー・ニコルズを手がけ、ワーナー/リプリーズではハーパス・ビザール、モジョ・メン、エヴァリー・ブラザーズのアルバムに参加し、ソフトロックを支えた名アレンジャーです。1974年のリーダーアルバム、「Italian Graffiti 」も何度聞いたかわかりません。Ruby and The Romanticsにはもう一人、Mort Garsonという作曲者およびアレンジャーがいます。代表曲である「Our Day Will Come」も彼の作品で、あの「魔法のオルガン」も彼の手によるものです。
Ruby and The Romanticsは KAPP Records から1961年にデビュー、その他、”Much Better Off Than I've Ever Been”、”Does He Really Care For Me””Your Baby Doesn't Love Anymore”(この曲も後に Carpenters によってカバーされました。)など素晴らしい曲が沢山あります。これらの曲はUKのCD「Our Day Will Come: Very Best of」でほとんど聞けるのですが、肝心の「Hurting Each Other」は残念ながら収録されておらず、いくつかのコンピレーションCDでしか聞くことができません。その上、シングルのB面であった”Baby I Could Be So Good At Lovin' You”(これもいい曲なんです)にいたってはCD化もされていないようです。どちらも聞きたい人はアナログ・シングル盤を手にいれるしかなさそうです。

 アレンジによって曲は新たな生命を吹き込まれ、甦ることがあります。アレンジがその曲の出来、不出来を決定すると言っても過言ではありません。自分の好みのアレンジャーを見つけ、追いかけてみることが、ひょっとすると、今まで聞いたことのないような素敵な曲に出会える最短距離なのかもしれません。

("Hurting Each Other" by Jimmy Clanton)

(Jimmyのオリジナル・ヴァージョンをふまえて聞いてみて下さい"Hurting Each Other" by Carpenters)

(69年当時にしてはかなりおしゃれなアレンジです。”"Hurting Each Other" by
Ruby And The Romantics)

(これが所謂「魔法のオルガン」"Our Day Will Come" by
Ruby And The Romantics)

2011年3月1日火曜日

リズムの遺伝子~Incognito

Artist:インコグニート
Album:Transatlantic Rpm
Song :Lowdown

 音楽の三要素といえば,メロディ(旋律)、ハーモニー(和声)そしてリズム(律動)と、音楽の教科書で習ったことがあります。実際に演奏したりしていると、確かにこの3つの要素が非常に重要だということが、遅ればせながら、やっとわかってきました。特にリズムは、その音楽の根幹をなしており、最近の音楽にいたるまでに多様な進化を遂げてきたように思います。
 というわけで、今回は、リズムについてのお話です。

 日頃慣れ親しんでいる、広い意味でのポピュラー音楽(ジャズ、ブルース、R&B、ロック、ソウルなどなど)には、リズムの遺伝子が脈々と受け継がれています。始まりは、その民族固有のビートで、原始においては、宗教における祈りや呪術のための舞踏や戦闘のための戦意の高揚の役目を果たしていました。共通していることは、単純なリズムを何度も繰り返すこと。この繰り返しが、一種のトランス状態や安らぎを生み出し、人々を別の次元へいざなっていきました。おもに、太鼓や鐘などの打楽器が主役でした。

 舞踏と音楽はきっても切り離せない関係になってきます。その後、舞踏は宗教から離れ、人々の暮らしの中での娯楽、ダンスとして広がっていくようになりました。人々の交流の手段が、進歩するにつれ、他の音楽のリズムと交わるようになると、さらに複雑なビートへ進化していくことになります。

このような音楽の融合が、実際起こった所が、「人種のるつぼ」だったアメリカの南部です。ここから様々なリズムが生み出されるようになります。

つらい重労働を強いられていた、黒人達にとって、労働歌は単純な作業の苦痛を和らげ、仕事の能率をあげる為に自然に生まれてきました。コール・アンド・レスポンス、呼びかけに対して、全員で答えるという形式は、肉体の苦痛を少しでも忘れられるように、そして団結し何かをやり遂げられるようにする為に必然的に生まれたのでした。この形式は後にブルーズ、ゴスペル、その後のジャズやロック、ソウルへ引き継がれていくことになります。
 このような過酷な環境の中で、唯一の娯楽はダンスでした。奴隷制度の頃のニューオリンズでは比較的、束縛が緩やかだったため、黒人の多く住んでいた地域であったコンゴ広場には週末になると、沢山の人々が集まり、アフリカの激しいビートに合わせて、朝まで踊り続けました。このアフリカン・ビートがヨーロッパからの移民の持ち込んだクラシックや中南米のカリプソなどと融合してジャズが生まれることになります。ジャズはさらにそのビートを鮮明にしていき、スイング・ジャズへ発展しました。またブルースもスイングの影響を受けブギウギやジャンプ・ブルースへ、さらに電気楽器の進歩と共に、ロックンロールやリズムアンドブルースへ進化していきます。
思わず体が動いてしまうこれらの音楽はダンス音楽として生み出されてきたという点が興味深いと思います。その後の音楽の流行は、「踊れる」ということがまず基本だったと思います。例えば50~60年代のR&Bでは色々なダンス・ステップが考案されました。モンキー・ダンズ、ホース・ダンス、チキン・ダンス、マッシュポテトなどの色々なステップが流行しています。

 一方、東部のアパラチア山脈には、主にアイルランド系の移民が多く住んでいました。アイリッシュ民謡は、ブルースやゴスペルなどの黒人の音楽と融合し、カントリー・ミュージックを生みだします。フィドルなどに合わせて、故郷のアイリシュ・ダンス(上半身を動かさず、素早く足を交差させるスタイル)で踊っていましたが、そのうちショービジネス化されタップ・ダンスへと変貌していきます。
またジャズの影響によりカントリー・スイングも生まれました。
 テキサスやニューメキシコにはメキシコ系移民が多く、メキシコ系テキサス人達がカントリーやロックにメキシコ音楽を持ち込むようになります。彼等の音楽はテックス・メックスと呼ばれ、これもダンス・ミュージックでした。また、メキシコ系二世達をチカーノと呼ぶようになり彼等の作るRockをチカーノ・ロックとも呼ぶようになりますが、これもメキシコ音楽の陽気なビートが特徴となっていました。
 ルイジアナにはフランス系の移民が多く、ここでは、アコーディオンなどを加えた独自のダンス音楽、ケイジャンが生まれました。さらにそれがブルースと融合しサディコとなり、広まっていきました。
このように、各地域で生まれたリズムは、移民達がもっていた独自の文化とも言えるわけで、それが生活の一部でもあった伝統的なダンスと深く結びついていることに音楽の普遍性を感じます。

 さらに時代を経て、ベースなどが電気化されると、ビートは同時にコードを刻むことができるようになり、ドラムスとの相乗効果で、さらに複雑なアンサンブルを表現することが可能になってきました。
70年代~80年になり、都市の富裕層の黒人たちは、ソウル・ミュージックをさらにファッショナブルにしたディスコ・ミュージックを支持するようになり、「ソウルの精神を忘れるな」という硬派はファンクへと流れていきました、人々はより強力なビートを求め、この流れはブラック・ミュージックだけでなく、白人達にも影響をあたえ、ブルーアイド・ソウルやAORが生まれました。
80~90年になると、レコーディング機器やコンピュータの進歩によりサンプリングなどの手法が用いられるようになり、リズムの核だけを増幅させたような音楽ヒップ・ポップやブレイク・ビーツ、またヨーロッパではユーロ・ビートが生まれダンス・スタイルも多様化していくことになります。
 ”スイング”以降「踊れない音楽」だった Jazzもマイルスが1970年にアルバム「ビッチェズ・ブリュー」を発表し、ロックやファンクとジャズの融合という指針をしめすと、所謂”フュージョン”や”クロスオーバー”と言われる、16ビートを基調にした、「踊れる」ジャズが商業的にも成功するようになりました。

1990年代になるとディスコと呼ばれていた、ダンスホールに「DJ」が登場し切れ目なく同じビートをつなぎ、聴衆のテンションを維持していく音楽が生まれました。やがてディスコは「クラブ」と呼ばれるようになり、ジャズに合わせて踊る文化がUKでおこります。クラブシーンから派生したジャズの文化は{アシッド・ジャズ」と呼ばれるようになりました。アシッド・ジャズのDJは選曲などにより”ファンク・ジャズ”や”ヒップ・ホップ”、”ブラジリアン・フュージョン””モッズ”など既製の曲をサンプリングし再構成することで、その個性を主張するようになりました。

 前置きが長くなりましたが、今回紹介する「匿名者」という意味をもつ”インコグニート”もアシッド・ジャズを代表するUKのバンドです。チョッパー・ベースも懐かしいボズ・スキャグスの”Lowdown"をカヴァーしています。ゲスト・ボーカリストとしてイタリア出身のマリオ・ビオンディと”ルーファス”のボーカリスト、チャカ・カーンが参加しており、オリジナルよりかなり黒っぽいヴァージョンに仕上がっています。
この曲なども、ほとんどが2コードの繰り返しで成り立っている曲で、繰り返されるビートに身をゆだねていると、なんとも心地よくなってきます。
この「心地よさ」は、「ひょっとすると人類に備わっている「リズムの遺伝子」が太古の記憶を呼び起こしているのでは」と想像すると、脈々と流れる歴史の中に自分も生きているんだなあ、などとちょっと壮大な気分になったりします。

("Lowdown" by Incognito)