2011年10月26日水曜日

詞選集~西岡恭蔵&KURO


Artist:西岡恭蔵
Book:西岡恭蔵&KURO 詞選集

「テイク・ワン Live in 南島原」終了しました。今回は陸前高田市で自らも被災されながら、楽器や歌う場所を提供しようとがんばっておられるミュージシャン村上さんを応援する為のチャリティー・コンサートでした。久留米から仲間達が駆けつけてくれまた、地元の方々の協力もいただきながら、昨年に続き「ふるさと」できたことが何よりの幸せです。集まった義援金は10月25日に村上さんの元へ届けられましたことを、ご報告しておきます。応援して下さった皆さんほんとうにありがとうございました。

Liveの最後にみんなで歌おうと選んだのが西岡恭蔵さんの”Glory Hallelujah"でした。

Glory Glory Hallelujah 愛は生きる事
私が私があることを願いながら
心の中にある神様の言葉が
祈りの唄になり あなたに届くように

まず誰かのソロから初めます。そして一人、また一人と声が重なっていき、4番では

耳を澄ませば微かに響く
遙かなあの町で唄う人達の声が
私もあなたも一人じゃないと
共に生きている確かなあの唄声が

と歌われます。「歌を通じて想いを届けたい」これは、Liveのテーマでもありました。誰にでもわかるとてもシンプル歌詞ですが、それが逆に普遍的意味を歌う者に与えてくれ、唄っていて徐々に気持ちが高揚してきます。
恭蔵さんのこのゴスペル・ソングは参加するものの気持ちを一つにする不思議な力があります。

この曲が収録されているアルバム「Farewell Song」('97)は奥様でもありそれ以上にアーティストとしてのインスピレーションを与えてくれる有能な作詞家であり、掛け替えのない存在であったKUROさんを亡くした後につくられたました。
恭蔵さんのKUROさんへの深い愛情と鎮魂の意味が込められた歌でもあります。

”私もあなたも一人じゃないと 
共に生きている確かなあの唄声が”
このフレーズは恭蔵さんが自分に向かって歌っているようで、胸がいっぱいになってしまいます。

このアルバムを制作された2年後の1999年4月、自らの命を絶つことで、Kuroさんの元へ旅立たれてしまいました。もっと恭蔵さんの歌を聞きたかった。残念でなりません。

恭蔵さんはKuroさんが亡くなられたあと、「Kuroちゃんをうたう」というトリビュート・アルバムを制作されています。これには生前関わりのあった多数のミュージシャンが参加され、それぞれが、慈しむようにKuroさんの作品をカヴァーされておりました。

そして恭蔵さんが亡くなられた後、友人達の手でほんとに限られた方達へ向けて届けられたのがこの詞歌集でした。音楽のない言葉で・・・。

この詞歌集を読んでいると、遠くからメロディーが聞こえてきます。
「僕等の生んだ唄達をヨロシク。」この詞歌集の表紙のように二人が笑って語りかけているような気がしてなりません。

僕等にできることは、その唄を歌い続けることで、その遺志を継ぐことしかできません。今後も、このことは、確実に引き継がれて行くことと思います。
今回のLiveで被災地のミュージシャンとの絆を結んでくれたのも天国にいる二人ではなかったのか、”Glory Hallelujah"を出演者全員で歌いながらふとそんなことを思いました。

(恭蔵さんの初期の詞の中で好きな曲、”コカコーラの広告塔の影にまもられた夏” 風景描写が素晴らしい。「パラソルさして」)


(”Glory Glory Hallelujah”野太くてそして優しい声。この曲が歌われる度に沢山の人達のいろんな想いが、新しい絆を結びつけてくれます。)


(今回、陸前高田市の村上さんとの橋渡しをしてくださった秋本節さん。恭蔵さんの遺志を引き継ぎ、僕等に素敵な歌を届けてくれます。”吉祥寺ではなかったんだけど”by 秋本節)

2011年10月13日木曜日

ジェントル・ヴォイス~Kenny Rankin


Artist:ケニー・ランキン
Song:Haven't We Met
Album:Silver Morning


 ケニー・ランキンの音楽はコーヒーの香りがする。初めて聞いたのは今をさること30年ほど前、大学時代だったと思う。一体何処で聞いたのだろう。記憶がさだかではないけど、日曜日の午後、窓から日の光が燦々と降り注ぐ、喫茶店だったような気がする。コーヒーの香りと、暖かい日射し、彼の「ジェントル・ヴォイス」にはそんな場所がよく似合う。

ケニーはニューヨークのハーレムの更に北にあるワシントン・ハイツで生まれた。ヒスパニック系移民が多く住むこの街でラテン音楽や黒人達のコーラスに魅了されコンガを演奏するようになったという。この頃聞いていたラテン音楽は彼のルーツとなっていたように思う。ここまで書いてハタと気づいたのだが、この環境はローラ・ニーロとよく似ている。一見、二人の音楽的な嗜好は違うように聞こえるが、ニューヨークの下町に流れていた音楽を貪欲に吸収している所に同じ根っこがあったような気がしてならない。奇しくも一度だけ後に二人でレコーディングしたことがある。その話はまた後で。
子供時から天使のような歌声と評判だった彼の声は、大人になるにしたがって誰もが認める甘い、ジェントル・ヴォイスへ成長していった。1957年デッカのプロデューサーがその声を認め、以後1960年まで7枚のシングルをリリースしているがヒットには至っていない。この時代はイタロ系ティーン・ポップ歌手として扱われていた。1961年から1963年まではあのテディ・ランダッツォ(リトル・アンソニー&インペリアルズやロイヤレッツなどの名盤を送り出したアレンジャー&プロデューサー)と共に活動。その頃にテディ・ランダッツォのプロデューサーだったドン・コスタ(達郎氏も尊敬する名アレンジャー)からジョアン・ジルベルトのLPを聞かされ大きな影響を受ける。すぐにギターを買い、独学でマスターし弾き語りを始める。

1963年から1966年はCBSレコードと契約シングルを6枚、妻のイヴォンヌとのデュオ名義のシングルを2枚リリースする。この時期にすでに今回取り上げた”Haven't We Met”を一度シングルでリリースしているが、このシングルを30年ずっと探し続けているが未だに入手できないでいる。1964年頃からディオンやジョン・セバスチャンと交流するようになり、彼らの間でフォーク、ジャズ、ボサノバなどをミックスした彼の独自のスタイルが評判となっていった。
1964年にはオリジナル曲”In The Name Of Love”をペギー・リーが、1965年には今回取り上げた”Haven't We Met”をメル・トーメやカーメン・マクレエなどのジャズヴォーカリストが取り上げ、徐々にその名前が知られるようになる。1965年にはボブ・ディランのアルバム「Bringing It All Back Home」にリズム・ギターとして参加。”サブタレニアン・ホームシック・ブルース”や”マギーズ・ファーム”で彼のギターが聞ける。

1967年マーキューリーレコードへ移籍。いよいよアルバムをリリース。
デビュー・アルバム「マインド・ダスターズ」(1967年)
セカンド・アルバム「ファミリー」(1969年)
その中の”Peaceful"は後にジョージ・フェイムやヘレン・レディーがカバーしヒットしている。この時期ドラッグに溺れ、私生活は荒れたこともあったがリハビリで見事克服。心機一転、カリフォルニアへ移り住む。

1972年、新しく設立されたレコードレーベル・リトル・デイヴィッドから
「ライク・ア・シード」をリリースし見事復活する。

そして1974年にはこの「シルバー・モーニング」1975年には「インサイド」1977年には彼の代表作との呼び声も高い「愛の序奏(ケニーランキンアルバム)」をリリースした。
その後のアルバムは以下を参照
After the Roses(邦題:アフター・ザ・ローゼズ)1980年
Hiding in Myself(邦題:ハイディング・イン・マイセルフ)1988年
Because of You(邦題:ビコーズ・オブ・ユー) 1991年
Professional Dreamer 1995年
Here in My Heart(邦題:ヒア・イン・マイ・ハート)1997年
Bottom Line Encore Collection 1999年(ライブ盤)
A Christmas Album 1999年
Haven't We Met? 2001年
A Song For You(邦題:ア・ソング・フォー・ユー)2002年


 ”Haven't We Met”は独特のスキャットとガットギターのめくるめくコードチェンジが素晴らしい。ケニーのオリジナル曲の中では一番のお気に入り。
そしてなんとYou-tubeを検索していたら、30年来探していたシングルバージョンを発見!(恐るべしYou-tube)
2つのヴァージョンには約10年の時間が流れています。聞き比べてみて下さい。

もう一つの彼の魅力はアドリブ。既製のメロディーラインを消化し、見事に自分の歌にしてしまうこのセンスの良さ。彼にかかるとビートルズの曲もハンク・ウィリアムズの曲もヤング・ラスカルズの”グルーヴィン”だって、彼のオリジナル曲のように聞こえてしまうのです。一度ハマッってしまうと、もう抜け出せません。

コード流れの上で自由に舞うメロディー。これと同じ感性をローラ・ニーロにも感じます。実は1983年に幻となったアルバムがあり、これには二人のデュエット曲”Polonaise"(これはプロモあり)とローラがコーラスを付けた”Love Song"が収録されるはずだったようです。いつかこのアルバムがリリースされることを夢見て、待つことにします。

日本にも何度か来日し、熱狂的な支持者を充分満足させてくれました。そんな彼も2009年の6月7日肺がんのための死去。素晴らしいミュージシャンをまた一人失ってしまいました。

「シルバー・モーニング」と「ケニー・ランキン・アルバム」それに「アフター・ザ・ローゼズ」。3枚の素敵なアルバムでのんびりした日曜日の午後を過ごしてみて下さい。きっと彼が至福の時間を与えてくれると思います。

(”Haven't We Met”from 「Silver Morning」)


("Blackbird"ここまでくるとビートルズ曲にあらず完全にケニーランキン節)



(30年間探し求めていた”Haven't We Met”のシングルバージョン。
歌はちょっとラフだけど、これも味があります。フルートがいい)


(Kenny RankinとLaura Nyroの夢のデュオ”Polonaise”これもYou-tubeで発見
これを投稿した人に唯々感謝です。)



2011年10月4日火曜日

胸キュンメロディー・メーカー~Gilbert O`Sullivan


Artist:ギルバート・オサリバン
Song:What's It All Supposed To Mean?
Album:Piano Foreplay


兎に角、希有のメロディー・メーカーだと思う。あのポール・マッカートニーをして「僕の後に続くのは、エルトン・ジョンか、彼だね。」と言わしめた男。
ひねりの効いたコード進行なのにその上に乗っかるメロディーはいたって自然、その上、胸キュンなんですよ。今回はそんなSSW、ギルバート・オサリバンのお話です。
今日のFace Bookで「クレア」のことを取り上げたら奇しくも彼は現在、日本に来ていてツアーの真っ最中でした。これは何か”Good vibration"を感じます。ちょっとおおげさだけど音楽の神様のお告げでしょう。

本名 レイモンド・エドワード・オサリバン。1946年12月1日アイルランドのウォーターフォードに生まれました。アイルランドにいた時期は短く、幼少の頃、家族と共にイングランドのスウィンドン地方に転居。その後、スィンドン芸術大学に進みバンド活動をおこないます。UKのほとんどの若者がそうだったようにビートルズに影響をうけ曲を書き始める。CBSレコードと契約を果たし数枚のシングルをリリースするもの、鳴かず飛ばす、注目される事は無かった。それでもあきらめずデモ・テープをあちこちに送り続ける。そして彼に興味をもった敏腕プロデューサー
ゴードン・ミルズが彼の人生を良くも、悪くも大きく左右することになります。
当時すでにトム・ジョーンズやエンゲルベルト・フンパーディンクのプロデュースで国際的な成功を収めていたミルズ氏は、ギルバートの才能を見抜き、自身のMAMレーベルより、1970年「Nothing Rhymed」をリリース、本国のラジオで瞬く間に火が付き、全英8位を記録、一躍ポップスターの仲間入りを果たす。
ちなみにGilbert O`Sullivanという名前はヴィクトリア王朝時代に活躍したオペレッタで有名作曲・作詞家コンビGilbert&Sullivanをもじったもの。
1971年、「ヒムセルフ」でアルバム・デビュー。チャップリンをおもわせるその衣装と風貌をゴードン・ミルズは嫌っていたといいますが、彼はそのスタイルを強く主張したと言います。今でもこの風貌が強く印象に残っていますので、彼の方が正しかったのかも知れません。
1972年、「アローン・アゲイン」が発表され全米で6週連続1位(この年の米の年間チャートでも2位)、全英3位を獲得、後にポップス史に残る永遠の名曲となりました。

「アローン・アゲイン」

たった今 もし僕がこういう辛さに慣れていなくて
もっと強い落ち込み方をしていたとしたら
確信するよ 自分で自分に決着をつけようと
近所の塔へと向かい その頂上へ昇り
この身を投げていただろうな
僕みたいにぼろぼろになって
急斜面の危うい道にひとり残された時
どんな感じだった?って
必死になって 誰かれかまわず聞いてまわる
教会でね
誰もが「神よ!」と懺悔をしている場所だから
『彼女(マリア様?)』が『彼(イエス様?)』を
この世に残したこと これは簡単なことじゃない
そんな僕らの心には もう迷いはない
そろそろ うちへ帰ったほうがいいかもね
今までと同じ 独りで帰ろう
・・・またひとりか
・・・代わり映えしないなぁ

ほんの1日前のことなのに
昨日までは やる気もいっぱい 頭も冴えて
派手なくらいに陽気に過ごしてた
だって そんな日々を心待ちにしてたんだから
まるで映画の配役をもらったかのような日々
人生でその配役がまわってきたら
嫌がる人なんているはずない そのくらい楽しかったんだ
なのに打ちのめすように 「現実」があらわれて
力も込めず 軽く触れるような手つきで
僕をずたずたに切り裂いていった
神様なんていやしない そんな疑いの気持ちだけ残して
本当に神がこの世に存在するのなら
なぜ僕を・・・見離すの?
この人生に必要な時の中
ほんとに ほんとうに
これがサダメだとでも言いたげに
また独りになった

ここには まだまだ暖かな心があるだろう?
修復できないくらい壊れてしまったこの場所で
傷ついてしまったら
放り投げられるみたいに置き去りにされてしまったら
どうすればいい?
何をすればいい?
また独りになっちゃった・・・
あーあ またいつものように

だから これまで積み重ねた日々を振り返る
浮かび上がるどんな思い出よりも まず
父が死んで大泣きした時のことを思いだす
あふれる涙をかくそうなんて 少しも思わず
ただだた 泣くだけ泣いたんだ
そして僕の母
65才になったとき 神様に魂の休息を与えられた
僕は母が生涯愛し続けた たった一人の男を
なぜあんな風に 神はこの世から召し取って行ったのか
ずっと理解出来ずにいたんだ

母は深く傷ついた心のまま 新たな出発地点に立たされて
励ましの声を送っても 結局何も語ってはくれなかったから
そうして母がこの世から去ったとき
1日中 泣いて泣いて泣きつづけた
あぁ僕はまた独りだ
いつものように
また 独りだよ
ごく自然な流れにそって

Love Songのような歌詞かと思いきや、とてもとても悲しい歌だったのです。のっけから自殺をほのめかしているのですから・・。あの胸キュンメロディーのおかげでこの曲は多くの人達の共感を生み、考えようによっては救いのないこの詩を深く心に染みる名曲に仕上げました。

同年、「クレア」をリリース。この曲、自分の娘の為に書いた曲とばかり思っていましたが、ゴードン・ミルズの娘さんのことを歌ったようですね。この頃ギルバートは忙しいミルズ氏にかわってこのクレアちゃんのベビーシッターをしていてすごくなついていたようです。「クレア」のプロモーションビデオやジャケットの写真をみるとまるで親子のような感じですから、相当親密な関係だったんだと思います。しかし、このミルズ氏との蜜月期も長くは続きませんでした。4枚目のアルバム「A Stranger in My Own Back Yard 」をリリースした1975年あたりから、音楽的な方向性や、さらにロイヤルティーの分配などをめぐって関係が悪化していき、77年のアルバム「Southpaw 」ミルズ氏との間に決定的な亀裂が生じてしまいます。最終的にはオサリバンがミルズを相手取って訴訟を起こす事態にまで発展してしまい、1984年のオサリバン側の勝訴が確定するまで、落ち着いた環境での音楽活動ができませんでした。(その後ミルズ氏は1986年に51歳で死去。オサリバンに関する、すべての音楽的なソースと権利はオサリバンのものとなりました。)
長い法廷争議の末、オサリバン自身も半ば人間不信に陥っていたこともあり80年代にはほとんど目立った音楽活動を行っていませんでしたが、そんな間でも日本では来生たかおや杉真理などをはじめとする彼のファン達によって、彼の音楽は愛され続けられました。アルバム「Rare Tracks」など日本のみで発売されたものもあります。

1985年あたりからはチャンネル諸島のジャージー島という人里離れた島で暮らしながらマイペースで音楽を作り続けています。先頃、最新作「Gilbertville 」がリリースされたばかりです。

今回のこの曲は2003年にリリースされたアルバム「Piano Foreplay 」に収録されている曲で地味だけど近年の彼の作品中では大好きな1曲です。秋になると何故か無性にこの曲が聞きたくなります。

メロディーメーカーとして希有の才能を持ちながら、エルトン・ジョンのような成功は収められなかった彼ですが、彼を愛してやまなかった日本のファンの為に今夜、何処かで歌ってくれているのかと思うと、結局これが彼の生き方であり、巨大な音楽産業から離れ、自分の本当に歌いたいことだけを歌える環境にいるからこそ、彼の書くメロディーが私達の胸を永遠に「キュン」とさせるのだと思ったりします。

最後に日本への彼からの手紙を紹介しておきます。「今回の日本の地震や津波、そして原子力発電所の問題による惨事に驚いている。家族や友人が安全な場所にいて、これ以上の被害が出ないようにジャージーから祈っている。
ギルバート/ケビン/アウサ/ヘレンマリー/タラより」

("What's It All Supposed To Mean?" by Gilbert O`Sullivan)


("What's In A Kiss?" by Gilbert O`Sullivan)


("Alone Again" by Gilbert O`Sullivan)