Song:Too Hurt To Cry
Album:Evidence~The Complete FAME Records Masters
遅ればせながら、「なでしこジャパン」やってくれましたね。最後まであきらめないあの精神的な「強さ」、ひたすら堪え忍んだ後の優勝。すべてが報われたその瞬間の笑顔の「美しさ」。まさに「なでしこ」の花の名に表されるような日本人の心の在り方を身をもって世界に示してくれました。今の日本をどれだけ勇気づけてくれたことか。「ありがとう。」日本中からそんな感謝の言葉が聞こえてきます。
サザン・ソウルにも、この「強さと美しさを」兼ね備えた素晴らしい女性ヴォーカリストのCDがリリースされました。その名はキャンディ・ステイトン(Candi Staton)。2004年に東芝から「Candi Staton」というタイトルで主な音源は聞くことができましたが、今回UKのレーベルKentから発売された「Evidence」はさらに未発表音源を加え、FAME(フェイム)時代にレコーディングしたほとんどが網羅されているというサザン・ソウル好きには夢のような内容になっています。
FAME(フェイム)Florence Alabama Music Enterprisesというスタジオについては「サザン・ソウルの断片~Dan Penn」で書いておりますので興味のある方は覗いてみて下さい。
長くなりますが、その後のフェイムの歴史について少し述べさせて下さい。1965年パーシー・スレッジの”When A Man Love A Woman"(男が女を愛する時)の大ヒットにより一躍、全米が注目するようになったFAMEスタジオにアトランティック・レコードの敏腕プロデューサーのジェリー・ウェクスラーは同年にまずウィルソン・ピケットを連れてきて「ダンス天国」(Land Of 100 Dances )、「ムスタング・サリー」などを録音。それがヒットすると見るや、コロンビアから移籍したばかりのアレサ・フランクリンをここでレコーディングさせ名作「貴方だけを愛して」(I Never Love A Man)を制作しました。
その後、数々のアーティストがこのFAMEからサザン・ソウルの名曲を生み出していきます。その頃フェイムを支えていたミュージシャンは、ジミー・ジョンスン(g)、ロジャー・ホーキンス(dr)、ジュニア・ロウ(b)、スプーナー・オールダム(Kbd)、デヴィッド・フッド(tp,b)などで、後にバリー・ベケット(kbd)、デュアン・オールマン(g)やチップ・モーマン(g)やトミー・コグビル(b)などが参加することもありました。このミュージシャン達の生み出すソウルフルなサウンドを気に入ったジェリー・ウェクスラーは、アレサのレコーディングをこのファイムのメンバーをごっそり引き抜いてニューヨークへ連れていって行いました。このことはフェイムの生みの親とも言えるリック・ホールにとっては自分が作り上げたサウンドを盗もうとする裏切り行為でした。リックはあらたにキャピトルと配給契約を結ぶことにしました。こうしてフェイムとアトランティック・レコードの蜜月期は68年に終わりを告げることになります。
フェイムのミュージシャン達は元来、リックが「金払い」が良くなかったこともあり、アトランティックとの契約打ち切りに不満をいだき、ジョンスン、ホーキンス、フッド、ベケットはリックの元を去り、69年3月、自分達の新たなスタジオを作りました。これが「マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ」であり、その後、ボズ・スキャッグス、ポール・サイモン、ロッド・スチューアートの録音によってロックミュージシャン達にも知られるようになり、70年代には多数のアーティストがここでレコーディングを行ったため「マッスル・ショールズ詣」と呼ばれるようになりました。フェイムの有能ソング・ライターであったダン・ペンも、この頃にはチップ・モーマンがナッシュビルに設立したアメリカン・スタジオへ居を移し、リックの元から去って行ってしまいました。
有能なミュージシャンやライターに去られたリックは、今まで白人が中心だったスタジオ・ミュージシャンに新たに黒人を加え専属ミュージシャン集団を新たに作ることにしました。ジョン・ボイス(b) 、フリーマン・ブラウン(dr)がその核となり”フェイム・ギャング”と呼ばれるようになります。そしてライターと新しく加わったのが、このブログで取り上げました。ジョージ・ジャクソンでした。(「サザン・ソウルの至宝]」を参照)
ジョージ・ジャクソンはその後、ティーン・グループ、オズモンズにデビュー曲「ワン・バッド・アップル」を書き、これが71年に全米1位となり、リックの期待にみごと応えています。
スタッフは揃いました。新しい転機に向かって動き出したフェイム。
そんな時、キャンデイはフェイムにやってきました。
キャンデイは幼い時から、教会でゴスペルを歌っていました。10代そこそこで、すでにその才能を開花させ、マヘリア・ジャクソンやスティプル・シンガーズなどの大御所達とツアーするようにまでになっていました。17才の時には、同じグループのメンバーとなんと駆け落ち(!)。さすがにこの時は説得され学校に戻っていますが、後の波乱の人生を予感させるような事件を起こしています。その後、地元の司祭の息子と結婚しますが、この夫が嫉妬深く、家に縛られ、7年の間、教会以外の場所で歌う事を許されなかったそうです。そんな彼女を見かねた兄は、あるときクラブへ連れ出し、そこで歌手だと信じないオーナーにアレサの”Do right woman do right man"を歌って聞かせます。その歌唱力に驚いたオーナーは毎週クラブで歌うように勧め、R&Bの世界へ入っていくことになります。
そのクラブへたまたま来ていた、盲目のシンガー、クラレンス・カーターは彼女の歌にほれ込み、彼女を励まし、フェイムのリック・ホールへ紹介し、そのことがデビューのきっかけとなります。(その後、嫉妬深い夫とは離婚。はれてクラレンス・カーターと夫婦になっています。)
リックとキャンディの出会いはちょうどこのフェイムのメンバーの新旧の入れ替え時期に重なっていたため、初期のレコーディングは”マッスル・ショールズ・サウンド”のメンバーで、その後のレコーディングはほぼ”フェイム・ギャング”のメンバーでおこなわれました。こうして、69年〜72年の間、3枚のアルバムと12枚のシングルがファイムでレコーディングされ、フェイム関連の中では名盤として後世に残されることになります。この2枚組CDにはそのすべてが収録されており、特にデイスク1の68年〜70年の作品の出来映えには言葉を失うくらい圧倒されます。その大半は、以前紹介しましたジョージ・ジャクソンの作品であることも特出すべき点です。
彼女の魅力は、何と言ってもその歌唱力ですが、アレサのような、パワフルな歌声ではなく、変声期前の少年のような”危うさ”をもっていて、そこが心に訴えかけてくるのです。
それは、自由に歌えなかった7年間を耐え、一気に放たれた歌える喜びに満ちた時間だったからかもしれません。その後、彼女はフェイムを離れ、ワーナーに移籍。ディスコ・ブームの中で数々のヒット曲を放ちますが、このフェイム時代の「強さと」「美しさ」にはふたたび巡り会うことはできなかったように思います。
(傑作の一つとして誰もがあげる”How can I put out the flame”。ジョージ・ジャクソン作)
("You don't love me no more" 合間に入る、ギターが渋い。クラレンス・カーター作)
(今回取り上げました”too hurt to cry"、このハネるようなピアノのバッキングは、後のAORなどのアレンジに繋がっていきます。これもジョージ・ジャクソン作。この人ほんといい曲書きます。)
17歳で駆け落ちって(笑)
返信削除そういえば思い出しましたが、高校生の時に宮崎にクラレンス・カーターの公演があってですねぇ・・・行ったんですよ。一人で。彼の作品どころか名前さえも知らないままに。チケットが当たったとかしたのかも?
全然楽しめなかったけど(当然か)、確かあれが私にとって初めてのコンサート体験だったはずです。
クラレンスの公演が「ハジコン」(こんな略語があるかどうかわかりませんが・・)ですか。す、すごいですね。駆け落ちの相手はゴスペル歌手のルウ・ロウズという人だったそうですが、この人の母親に諭されたようです。結局、クラレンスともその後、離婚しているようですが、まあ人生は終わるまでは何がおこるかわかりませんね。ちなみにアレサもツアー中にサム・クックと恋仲になり、父親に邪魔され想いが叶わなかったと回想しておりました。ゴスペル出身のシンガーは、恋愛も何故かしら一途ですね。
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