2011年7月25日月曜日

僕らのハイウェイ・ソング〜Dan Peek


Artist:アメリカ
Song:Ventura Highway
Album:Homecoming

 ネットで見つけた悲しい知らせ。「7月24日、ダン・ピーク死去。享年60才。」ダンは”アメリカ”というバンドの創立メンバーであり、”アメリカ”のサウンドは私にとって音楽をやる上でのある到達点でもありました。彼の弾くmaj7thコードの12弦ギターの響きに魅了された15の時から、ずっとその”響き”を追いかけて来たような気がします。

 ”アメリカ”のオリジナル・メンバーは3人、ジェリー・ベックレー(米テキサス州フォートワース生まれ)、ダン・ピーク(米フロリダ州パナマ・シティ生まれ)、デューイ・バネル(英ヨークシャー州ハロゲイト生まれ)
この二人のアメリカ、一人のイギリスの青年達が出会ったのはロンドンでした。
彼らの父親達はそろって米空軍に勤務しており、転勤先のロンドンのアメリカン・スクールの同級生だったようです。時は1970年。5人やっていたDazeというフォークロックバンドが解散。その中の3人だけで、アコースティック・ギターを主体としたグループを結成。二人の祖国への望郷も想いもあって”アメリカ”という名前のイギリスのバンドが誕生することになります。後に彼らのマネージメントを引き受けることになるジェフ・デクスターは当時の彼らのステージをこう評しています。「演奏も歌もたいして上手くはなかった。だが3人の生み出すサウンドは素晴らしかった」彼もあの"響き”に魅了されたに違いありません。

そして1971年9月デビュー・アルバム「America」はリリースされました。当初は、あまり注目されませんでしたが、オランダで”名前のない馬”がヒット、1972年になるとイギリスでも火が付き2月には見事No.1となります。そして、アメリカにも飛び火して3月〜4月の間にビルボードでNo.1に輝きます。
アルバムもニール・ヤングの「ハーヴェスト」を追い抜きついにNo.1を獲得。こうして無名の3人の若者の環境は一変することになりました。むろん、日本でも大ヒット。ちょうどその頃ギターを弾き始めた頃で、”名前のない馬”のコードを必死にコピーしたものでした。
”名前のない馬”にはEm,D6(9th),Em9,Dmai9の4つのコードしか出てきません。ちなみに弾いてみると、Em(5弦、4弦の2フレットで押さえる)、D6(9th)(6弦、3弦の2フレット)、Em9(5弦、1弦の2フレット)、,Dmai9(3弦、2弦の2フレット)というように2本の指を2フレットの間で平行移動させるだけで、あの独特な”響き”を簡単に体験できる魔法の様なコード進行になっています。今でも、このアルバムに針をおとすたびにギターを弾き始めた中学生だった私に帰っていきます。(「日溜まり〜America」参照)
そして、あのすばらしい”響き”(サウンド)の核となっていたのがダン・ピークの弾く12弦ギターのカッティングでした。

 1972年11月には、このセカンドアルバムがリリースされ、その中のこの曲”Ventura Highway"は僕らの”エバー・グリーン”となりました。
(蛇足ですがこの見開きアルバム・ジャケの右上の丘にも、Beach Boysの「Surf's Up」に使われていたジェームズ・アール・フレーザーの”エンド・オブ・ザ・トレイル(End of the Trail)がシルエットとなっています。ジャケットをクリックしてみて下さい。彼等もBeach Boysが好きだったんですね。サード・アルバム「Hat Trick」では共演してますし、後にジェリー・ベックレーはカール・ウィルソンとアルバム作ってます。)

大学時代にバンドを組んだ僕らは、毎月、久留米で開かれる音楽同好会”テイク1”のミーティングに参加するために福岡市から久留米へドライブするのが楽しみでした。相棒の運転する車で、"Ventura Highway"を聞きながら、曲作りのこと、ハーモニーなどの音楽こと、それだけじゃなく、映画のこと、感動した小説のこと、将来の夢や恋や、ありとらゆることを話したような気がします。久留米へつづく筑紫野バイパス。通り過ぎていく風景に溶けていくアコースティック・ギターの響きそれはまさに「僕らのハイウェイ・ソング」でした。

その後、彼らはコンスタントにアルバムをリリースしていきます。
1972年 Homecoming (US #9)
1973年 Hat Trick (US #28)
1974年 Holiday (US #3)
1975年 Hearts (US #4)
1976年 Hideaway (US #11)
1977年 Harbor (US #21)
(意図的だったと思いますがすべて「H」からはじまっています。ちなみに「Holiday」以降のプロデュースは5人目のビートルズと言われていましたジョージ・マーティン。)

そして77年のアルバム「Harbor」を最後に、理由はよくわかりませんが、ダン・ピークは”アメリカ”を脱退し、ソロ活動することになります。同時にあの”響き”は私から、だんだんと遠のいていくように思えました。”アメリカ”への思い入れと同じように。

そしてダンがいなくなってしまった今、3人の弾くあのアコギとハーモニーはアルバムの中のセピア色の写真のように、とても大切な懐かしい思い出になってしまいました。

あの頃聞いていた「僕らのハイウェイ・ソング」は、きっと今に至る、長い長い道のりへの道しるべだったのだと思います。
私をここへ、連れて来てくれたダン・ピークさんの冥福を、謹んでお祈り申し上げます。

(”Ventura Highway" by America、右端の12弦ギターがダン・ピーク。)

(”名前のない馬」”たった4つのコードのアンサンブルの魔法の曲)

2011年7月22日金曜日

サザン・ソウルの歌姫〜Candi Staton

Artist:キャンディ・ステイトン
Song:Too Hurt To Cry
Album:Evidence~The Complete FAME Records Masters

 遅ればせながら、「なでしこジャパン」やってくれましたね。最後まであきらめないあの精神的な「強さ」、ひたすら堪え忍んだ後の優勝。すべてが報われたその瞬間の笑顔の「美しさ」。まさに「なでしこ」の花の名に表されるような日本人の心の在り方を身をもって世界に示してくれました。今の日本をどれだけ勇気づけてくれたことか。「ありがとう。」日本中からそんな感謝の言葉が聞こえてきます。
  
 サザン・ソウルにも、この「強さと美しさを」兼ね備えた素晴らしい女性ヴォーカリストのCDがリリースされました。その名はキャンディ・ステイトン(Candi Staton)。2004年に東芝から「Candi Staton」というタイトルで主な音源は聞くことができましたが、今回UKのレーベルKentから発売された「Evidence」はさらに未発表音源を加え、FAME(フェイム)時代にレコーディングしたほとんどが網羅されているというサザン・ソウル好きには夢のような内容になっています。
FAME(フェイム)Florence Alabama Music Enterprisesというスタジオについては「サザン・ソウルの断片~Dan Penn」で書いておりますので興味のある方は覗いてみて下さい。

長くなりますが、その後のフェイムの歴史について少し述べさせて下さい。1965年パーシー・スレッジの”When A Man Love A Woman"(男が女を愛する時)の大ヒットにより一躍、全米が注目するようになったFAMEスタジオにアトランティック・レコードの敏腕プロデューサーのジェリー・ウェクスラーは同年にまずウィルソン・ピケットを連れてきて「ダンス天国」(Land Of 100 Dances )、「ムスタング・サリー」などを録音。それがヒットすると見るや、コロンビアから移籍したばかりのアレサ・フランクリンをここでレコーディングさせ名作「貴方だけを愛して」(I Never Love A Man)を制作しました。

その後、数々のアーティストがこのFAMEからサザン・ソウルの名曲を生み出していきます。その頃フェイムを支えていたミュージシャンは、ジミー・ジョンスン(g)、ロジャー・ホーキンス(dr)、ジュニア・ロウ(b)、スプーナー・オールダム(Kbd)、デヴィッド・フッド(tp,b)などで、後にバリー・ベケット(kbd)、デュアン・オールマン(g)やチップ・モーマン(g)やトミー・コグビル(b)などが参加することもありました。このミュージシャン達の生み出すソウルフルなサウンドを気に入ったジェリー・ウェクスラーは、アレサのレコーディングをこのファイムのメンバーをごっそり引き抜いてニューヨークへ連れていって行いました。このことはフェイムの生みの親とも言えるリック・ホールにとっては自分が作り上げたサウンドを盗もうとする裏切り行為でした。リックはあらたにキャピトルと配給契約を結ぶことにしました。こうしてフェイムとアトランティック・レコードの蜜月期は68年に終わりを告げることになります。

 フェイムのミュージシャン達は元来、リックが「金払い」が良くなかったこともあり、アトランティックとの契約打ち切りに不満をいだき、ジョンスン、ホーキンス、フッド、ベケットはリックの元を去り、69年3月、自分達の新たなスタジオを作りました。これが「マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ」であり、その後、ボズ・スキャッグス、ポール・サイモン、ロッド・スチューアートの録音によってロックミュージシャン達にも知られるようになり、70年代には多数のアーティストがここでレコーディングを行ったため「マッスル・ショールズ詣」と呼ばれるようになりました。フェイムの有能ソング・ライターであったダン・ペンも、この頃にはチップ・モーマンがナッシュビルに設立したアメリカン・スタジオへ居を移し、リックの元から去って行ってしまいました。

 有能なミュージシャンやライターに去られたリックは、今まで白人が中心だったスタジオ・ミュージシャンに新たに黒人を加え専属ミュージシャン集団を新たに作ることにしました。ジョン・ボイス(b) 、フリーマン・ブラウン(dr)がその核となり”フェイム・ギャング”と呼ばれるようになります。そしてライターと新しく加わったのが、このブログで取り上げました。ジョージ・ジャクソンでした。(「サザン・ソウルの至宝]」を参照)
ジョージ・ジャクソンはその後、ティーン・グループ、オズモンズにデビュー曲「ワン・バッド・アップル」を書き、これが71年に全米1位となり、リックの期待にみごと応えています。

スタッフは揃いました。新しい転機に向かって動き出したフェイム。
そんな時、キャンデイはフェイムにやってきました。

キャンデイは幼い時から、教会でゴスペルを歌っていました。10代そこそこで、すでにその才能を開花させ、マヘリア・ジャクソンやスティプル・シンガーズなどの大御所達とツアーするようにまでになっていました。17才の時には、同じグループのメンバーとなんと駆け落ち(!)。さすがにこの時は説得され学校に戻っていますが、後の波乱の人生を予感させるような事件を起こしています。その後、地元の司祭の息子と結婚しますが、この夫が嫉妬深く、家に縛られ、7年の間、教会以外の場所で歌う事を許されなかったそうです。そんな彼女を見かねた兄は、あるときクラブへ連れ出し、そこで歌手だと信じないオーナーにアレサの”Do right woman do right man"を歌って聞かせます。その歌唱力に驚いたオーナーは毎週クラブで歌うように勧め、R&Bの世界へ入っていくことになります。
そのクラブへたまたま来ていた、盲目のシンガー、クラレンス・カーターは彼女の歌にほれ込み、彼女を励まし、フェイムのリック・ホールへ紹介し、そのことがデビューのきっかけとなります。(その後、嫉妬深い夫とは離婚。はれてクラレンス・カーターと夫婦になっています。)
 
 リックとキャンディの出会いはちょうどこのフェイムのメンバーの新旧の入れ替え時期に重なっていたため、初期のレコーディングは”マッスル・ショールズ・サウンド”のメンバーで、その後のレコーディングはほぼ”フェイム・ギャング”のメンバーでおこなわれました。こうして、69年〜72年の間、3枚のアルバムと12枚のシングルがファイムでレコーディングされ、フェイム関連の中では名盤として後世に残されることになります。この2枚組CDにはそのすべてが収録されており、特にデイスク1の68年〜70年の作品の出来映えには言葉を失うくらい圧倒されます。その大半は、以前紹介しましたジョージ・ジャクソンの作品であることも特出すべき点です。

 彼女の魅力は、何と言ってもその歌唱力ですが、アレサのような、パワフルな歌声ではなく、変声期前の少年のような”危うさ”をもっていて、そこが心に訴えかけてくるのです。
それは、自由に歌えなかった7年間を耐え、一気に放たれた歌える喜びに満ちた時間だったからかもしれません。その後、彼女はフェイムを離れ、ワーナーに移籍。ディスコ・ブームの中で数々のヒット曲を放ちますが、このフェイム時代の「強さと」「美しさ」にはふたたび巡り会うことはできなかったように思います。

(傑作の一つとして誰もがあげる”How can I put out the flame”。ジョージ・ジャクソン作)

("You don't love me no more" 合間に入る、ギターが渋い。クラレンス・カーター作)

(今回取り上げました”too hurt to cry"、このハネるようなピアノのバッキングは、後のAORなどのアレンジに繋がっていきます。これもジョージ・ジャクソン作。この人ほんといい曲書きます。)

2011年7月11日月曜日

窓辺の唄~Audrey Hepburn

Artist:オードリー・ヘップバーン
Song:Moon River
Album:Music From The Films Of Audrey Hepburn

「ムーン・リバー」シンプルでいて気品のあるメロディーを持った曲です。
ご存じとは思いますが、この曲は1961年の映画「ティファニーで朝食を」の挿入歌として発表されその年のグラミー賞、アカデミー歌曲賞を受賞しています。
作曲:ヘンリー・マンシーニ、作詞はジョニー・マーサー 。このコンビ、翌年の1962年も「酒とバラの日々」(Days Of Wine And Roses)でアカデミー歌曲賞を受賞、1964年にはグラミー賞を獲得していて、すでに二人とも故人となっていますが、この2曲は二人の代表曲と言っても過言ではありません。(1963年には「シャレード」も二人で書いています。3年連続の受賞とはいかなかったようです。)
「ムーン・リバー」いったいどれぐらいのカバーがあるのでしょう。おそらく数百いや千曲ぐらいはあるのではないでしょうか。カバーは多数あれど。やはりこの曲はヘップバーンが窓辺でギターを弾きながら歌うあのシーン抜きには語れません。というかあの映画のシチュエーションで歌われるからこそ、じーんと胸に染みてくるのです。それはこの歌詞の持つ本当の意味を解き明かしていくことでわかってきます。

かつてこの曲のカヴァーで有名なアンディ・ウィリアムズはTVショーでこう発言しています。「実はこの歌詞の意味には判らない所があります。でも歌ってみます」わずか1番だけの短い歌詞ですが、訳詞者泣かせの曲であり原曲を歌っている歌手でさえ、理解できない所があるようです。

Moon river,wider than a mile
I'm crossing you in style some day
Oh,dream maker,you heart breaker
Wherever you're goin',I'm goin' your way

Two drifters,off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end,waitin''round the bend
My huckleberry friend,Moon river,and me

作詞者であるジョニー・マーサー (Johnny Mercer )はアメリカを代表する作詞家です。(時々曲も書いています)彼は、1909年南部のジョージア州サバナ生まれました。正式な音楽の訓練を受けた事はないようですが、生後6ケ月で彼の叔母がハミングで歌を聴かせたため音楽の好きな子供となり、11,2才の頃には一度聴いた曲すべてを憶えられることができるようになったとあります。19才の時,夢を持って南部の田舎町からニューヨークにやってきます。最初は俳優を志しましたが、すぐに歌手と歌作りに転向しました。そこでビッグバンドに雇われて21才の時、初めての詩がミュージカルで使われました。そこで多くの作詩、作曲家と知りあい、彼も作詞に専念するようになり、多くの曲をミュージカルのために作詩するようになります。
「P.S, I Love You 」(1934)
「Goody,Goody 」(1936)
「Too Marvelous For Words 」(1937)
「Jeepers Creepers 」(1938)
「I Thought About You 」(1939)
「Day In,Day Out 」(1939)
1940年代には、作曲家ハロルド・アーレンと組んで
「Blues In The Night」
「That Old Black Magic」
「One For My Baby」
「My Shining hour」
「Come Rain Or Come Shine」
ジェローム・カーンとは
「I'm Old Fashioned 」(1942)
「Dearly Beloved」(1942)
などを書いています。作曲家としては「Dream」(1944)が有名です。
また訳詞や後に詩を付けた作品としては、
「Autumn Leaves 」(枯葉) (1947,英詞1950)
やデューク・エリントンとビリー・ストレイホーン書いた
「Satin Doll」(サテン・ドール) (1953,歌曲として1958)などがあります。
約1500曲を世に送り出し、その多くの曲がスタンダード・ナンバーとなっていますが実業家としても有名でレコード会社「キャピトル」の創設者の一人でもあり、片田舎から出て来た青年が夢を叶えるというまさにアメリカン・ドリームを実現させた人でもあります。

ヘップバーンが演じるホリー・ゴライトリーも南部の田舎町から夢をもって大都会へやってきた小悪魔的な無邪気さと妖精のような純真さを併せ持った娘でした。そして彼女には孤児だった悲しい過去があり、田舎に残した弟に望郷の想いを持っていました。
「望郷の想い」。若かりし頃のジョニー・マーサー と同じように・・・・。

まず、歌詞の中に出てくる「Moonriver」が問題です。文字どおり「月にある川」という意味ではなさそうです。とすれば「月光が水面(みなも)に漂う川」とロマンティックな情景を想像してもいいのですが、それでもピンときません。そうこう悩んでいる時に、マーサー は最初この曲を「レッド・リバー」 とか「ブルー・リバー」とか呼んでいたという記述を発見しました。つまり「Moon river」である必要はなかったということになります。「レッドリバー」とは泥の川つまり南部の川のことを意味します。ひょっとすると故郷の川ということかもしれないと調べてみましたところありました。なんとマーサー の自宅近くを流れていた川「Back River」が別名「Moon River」と呼ばれていたというサイトを発見しました。(Johnny Mercer's Home: Savannah,Ga. & the "Moon River")
やはり、「Moon River」とは実在する「故郷の川」だったんですね。
というわけで第一の謎は解けました。

次は「My huckleberry friend」という言葉です。「ハックルベリー」というとどうしてもマーク・トウェイン「トムソーヤ」の友達、黒人の”ハックルベリー”を連想しますが、どうもそれではないようです。ここは本来の意味”huckleberry”(コケモモの一種で南部にはよくある木)だと思われます。つまりコケモモの木で遊んだ友達”竹馬の友”というマーサー 流の造語だったと考えられます。
以上を踏まえてあえて意訳するとこんな歌詞になると思います。

ムーン・リバー大きくて広い私の故郷の川
いつかきっとあなたを優雅に渡ってみせるわ
私の夢を育み、時には痛みも残していったそんな川
あなたにどこまでだってついていくわ

あなたと私が、漂っているこの世界には
沢山の素敵なことがこんなにあったのね
きっと虹の袂で待っている同じ幸せを
私達は探し求めているんだわ

ムーン・リバーは懐かしい私の友達
そう、ムーン・リバーと私は

こんな意味ではなかろうかと思いますがどうでしょう。

一見、自由気ままに都会で生きているホリー・ゴライトリー。でも一人で自立して行こうと懸命に生きている女性なのです。その決意とけなげさ。
そしてなかば家出同然に故郷を捨ててきたことへの自責と望郷の念。
そんな思いで、あらためてこのシーンをみるとヘップバーンの表情に微妙な暗い影を感じとれるようになり、じーんと胸に染みてきます。

実は、余りに長いこの映画の試写を見た当時のお偉いさん達は、どこか削れるシーンがないかと注文をつけ、この「窓辺の唄」のシーンをカットすることになったそうですが、ヘップバーンが毅然として反対してなんとかカットされずにすんだという逸話が残っています。もしこのシーンがカットされていたら、ジョニー・マーサー のアカデミー賞はなかったかもしれません。アカデミー賞の半分はヘップバーンにあげてもよかったかもしれませんね。

原作者のトルーマン・カポーティはヘップバーンのホリー・ゴライトリーを気に入らなかったようですが、私は映画と小説は別物だと思っていますので「Moon River」は私にとって永遠の「窓辺の唄」であり、それを歌うのはやはりヘップバーン以外にあり得ません。

(”Moon River” by Audrey Hepburn)