2011年3月1日火曜日

リズムの遺伝子~Incognito

Artist:インコグニート
Album:Transatlantic Rpm
Song :Lowdown

 音楽の三要素といえば,メロディ(旋律)、ハーモニー(和声)そしてリズム(律動)と、音楽の教科書で習ったことがあります。実際に演奏したりしていると、確かにこの3つの要素が非常に重要だということが、遅ればせながら、やっとわかってきました。特にリズムは、その音楽の根幹をなしており、最近の音楽にいたるまでに多様な進化を遂げてきたように思います。
 というわけで、今回は、リズムについてのお話です。

 日頃慣れ親しんでいる、広い意味でのポピュラー音楽(ジャズ、ブルース、R&B、ロック、ソウルなどなど)には、リズムの遺伝子が脈々と受け継がれています。始まりは、その民族固有のビートで、原始においては、宗教における祈りや呪術のための舞踏や戦闘のための戦意の高揚の役目を果たしていました。共通していることは、単純なリズムを何度も繰り返すこと。この繰り返しが、一種のトランス状態や安らぎを生み出し、人々を別の次元へいざなっていきました。おもに、太鼓や鐘などの打楽器が主役でした。

 舞踏と音楽はきっても切り離せない関係になってきます。その後、舞踏は宗教から離れ、人々の暮らしの中での娯楽、ダンスとして広がっていくようになりました。人々の交流の手段が、進歩するにつれ、他の音楽のリズムと交わるようになると、さらに複雑なビートへ進化していくことになります。

このような音楽の融合が、実際起こった所が、「人種のるつぼ」だったアメリカの南部です。ここから様々なリズムが生み出されるようになります。

つらい重労働を強いられていた、黒人達にとって、労働歌は単純な作業の苦痛を和らげ、仕事の能率をあげる為に自然に生まれてきました。コール・アンド・レスポンス、呼びかけに対して、全員で答えるという形式は、肉体の苦痛を少しでも忘れられるように、そして団結し何かをやり遂げられるようにする為に必然的に生まれたのでした。この形式は後にブルーズ、ゴスペル、その後のジャズやロック、ソウルへ引き継がれていくことになります。
 このような過酷な環境の中で、唯一の娯楽はダンスでした。奴隷制度の頃のニューオリンズでは比較的、束縛が緩やかだったため、黒人の多く住んでいた地域であったコンゴ広場には週末になると、沢山の人々が集まり、アフリカの激しいビートに合わせて、朝まで踊り続けました。このアフリカン・ビートがヨーロッパからの移民の持ち込んだクラシックや中南米のカリプソなどと融合してジャズが生まれることになります。ジャズはさらにそのビートを鮮明にしていき、スイング・ジャズへ発展しました。またブルースもスイングの影響を受けブギウギやジャンプ・ブルースへ、さらに電気楽器の進歩と共に、ロックンロールやリズムアンドブルースへ進化していきます。
思わず体が動いてしまうこれらの音楽はダンス音楽として生み出されてきたという点が興味深いと思います。その後の音楽の流行は、「踊れる」ということがまず基本だったと思います。例えば50~60年代のR&Bでは色々なダンス・ステップが考案されました。モンキー・ダンズ、ホース・ダンス、チキン・ダンス、マッシュポテトなどの色々なステップが流行しています。

 一方、東部のアパラチア山脈には、主にアイルランド系の移民が多く住んでいました。アイリッシュ民謡は、ブルースやゴスペルなどの黒人の音楽と融合し、カントリー・ミュージックを生みだします。フィドルなどに合わせて、故郷のアイリシュ・ダンス(上半身を動かさず、素早く足を交差させるスタイル)で踊っていましたが、そのうちショービジネス化されタップ・ダンスへと変貌していきます。
またジャズの影響によりカントリー・スイングも生まれました。
 テキサスやニューメキシコにはメキシコ系移民が多く、メキシコ系テキサス人達がカントリーやロックにメキシコ音楽を持ち込むようになります。彼等の音楽はテックス・メックスと呼ばれ、これもダンス・ミュージックでした。また、メキシコ系二世達をチカーノと呼ぶようになり彼等の作るRockをチカーノ・ロックとも呼ぶようになりますが、これもメキシコ音楽の陽気なビートが特徴となっていました。
 ルイジアナにはフランス系の移民が多く、ここでは、アコーディオンなどを加えた独自のダンス音楽、ケイジャンが生まれました。さらにそれがブルースと融合しサディコとなり、広まっていきました。
このように、各地域で生まれたリズムは、移民達がもっていた独自の文化とも言えるわけで、それが生活の一部でもあった伝統的なダンスと深く結びついていることに音楽の普遍性を感じます。

 さらに時代を経て、ベースなどが電気化されると、ビートは同時にコードを刻むことができるようになり、ドラムスとの相乗効果で、さらに複雑なアンサンブルを表現することが可能になってきました。
70年代~80年になり、都市の富裕層の黒人たちは、ソウル・ミュージックをさらにファッショナブルにしたディスコ・ミュージックを支持するようになり、「ソウルの精神を忘れるな」という硬派はファンクへと流れていきました、人々はより強力なビートを求め、この流れはブラック・ミュージックだけでなく、白人達にも影響をあたえ、ブルーアイド・ソウルやAORが生まれました。
80~90年になると、レコーディング機器やコンピュータの進歩によりサンプリングなどの手法が用いられるようになり、リズムの核だけを増幅させたような音楽ヒップ・ポップやブレイク・ビーツ、またヨーロッパではユーロ・ビートが生まれダンス・スタイルも多様化していくことになります。
 ”スイング”以降「踊れない音楽」だった Jazzもマイルスが1970年にアルバム「ビッチェズ・ブリュー」を発表し、ロックやファンクとジャズの融合という指針をしめすと、所謂”フュージョン”や”クロスオーバー”と言われる、16ビートを基調にした、「踊れる」ジャズが商業的にも成功するようになりました。

1990年代になるとディスコと呼ばれていた、ダンスホールに「DJ」が登場し切れ目なく同じビートをつなぎ、聴衆のテンションを維持していく音楽が生まれました。やがてディスコは「クラブ」と呼ばれるようになり、ジャズに合わせて踊る文化がUKでおこります。クラブシーンから派生したジャズの文化は{アシッド・ジャズ」と呼ばれるようになりました。アシッド・ジャズのDJは選曲などにより”ファンク・ジャズ”や”ヒップ・ホップ”、”ブラジリアン・フュージョン””モッズ”など既製の曲をサンプリングし再構成することで、その個性を主張するようになりました。

 前置きが長くなりましたが、今回紹介する「匿名者」という意味をもつ”インコグニート”もアシッド・ジャズを代表するUKのバンドです。チョッパー・ベースも懐かしいボズ・スキャグスの”Lowdown"をカヴァーしています。ゲスト・ボーカリストとしてイタリア出身のマリオ・ビオンディと”ルーファス”のボーカリスト、チャカ・カーンが参加しており、オリジナルよりかなり黒っぽいヴァージョンに仕上がっています。
この曲なども、ほとんどが2コードの繰り返しで成り立っている曲で、繰り返されるビートに身をゆだねていると、なんとも心地よくなってきます。
この「心地よさ」は、「ひょっとすると人類に備わっている「リズムの遺伝子」が太古の記憶を呼び起こしているのでは」と想像すると、脈々と流れる歴史の中に自分も生きているんだなあ、などとちょっと壮大な気分になったりします。

("Lowdown" by Incognito)

4 件のコメント:

  1. すげえ、この曲に付くにはあまりの大作の著述。
    話はどこに行くのかと思っちゃった (^_^;

    しかし、心地よいサウンドと リズム。
    ゴキゲンダス。

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  2. なるほど。フムフム、素晴らしい!

    このへんの関係は何度見聞きしても曖昧になりますもんね。

    太鼓の単調なリズムと自然の麻薬。
    一番大切なものだったのかも。

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  3. 「この繰り返しのビートの心地よさはなんでなんだろう」と考えていたら、「ダンス」というキーワードが浮かんできて、ダンスについて考えていたら、こんな風になってしまいました。
    お経を聞きながら眠ってしまうのもたぶん、繰り返しのビートの心地よさのためですよ。関係ないか。

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  4. ターザンさん
    そうそう、大きな声ではいえませんが、ドラッグと音楽も切ってはきれない関係なんですね。この話は飲みながらでも・・・。

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