2010年6月24日木曜日

セカンド・ライン~Jon Cleary



Artist:ジョン・クレアリー
Album:Pin Your Spin
Song:Pin Your Spin













 マーティン・スコセッシ監修の”ブルース”・プロジェクトのDVD(全7タイトル)、ケン・バーンズ監修のDVD”Jazz”(ジャズの歴史)(全10タイトル)を最近、まとめて見る機会がありました。両者ともかなり見応えがあり、同時にそれぞれの音楽への愛情に満ちた作品でした。

 そこで改めて、教えられたのは、南部、特に人種のるつぼだったニュー・オリンズがアメリカの色々な音楽を生み出すまさに「ゆりかご」だったということでした。
18世紀フランス領だったルイジアナの主府にルイ15世の摂政オルレアン公フィリップ2世にちなんで、ラ・ヌーヴェル-オルレアン(新オルレアン)と命名されたのがニュー・オリンズの起源と言われています。一度はスペイン領となりますが、ナポレオンがフランスへ返還させ、19世紀にはアメリカ合衆国へ売却しました。また悪名高き奴隷制度のため多くのアフリカ系の黒人達が連行され、フランス、ヒスパニック、アフリカ系黒人など様々な人種が暮らす街になりました。
  ほとんどの南部地域では奴隷の暴動をおそれ、集会や集団での音楽や踊りは禁止されていましたが、ニュー・オリンズのコンゴ広場だけは踊りなどが許されており、週末アフロビートのドラムが明け方まで鳴り響いていたそうです。その後、南北戦争が終結し、軍楽隊などで使用された楽器が安くで入手できるようになると、黒人達は、少しでも楽にお金を稼げる手段として、楽器を演奏するようになります。黒人の中のクレオール(フランス人と奴隷の混血の人々)と呼ばれる人達は白人として扱われ、一部、富裕層も現れ、ヨーロッパ式の音楽教育を受けた人も出てきました。楽譜の読める彼等は、楽器の弾ける人達を指導し、今で言うブラス・バンドを結成するようになります。太鼓などのアフロ・ビートとブラズ・バンドの融合が後に”Jazz"を生み出す素地になったようです。
 また、現世では苦しみばかりが続き、解放されなかった彼が唯一、願望したのは人生を終えたあとに天国へ召されることでした。そのため死後、ちゃんとした、お墓へ埋葬されることを心の支えとしました。(ブルースの歌詞に「墓」をテーマにしたものが多いのはそのためのようです。)そして葬儀に関しても独特のスタイルが生まれました。
墓地に向かう際は遺族を先頭に、ブラス・バンドが続き、悲しげな、重々しい曲が演奏されましたが帰りは、一転、天国へ召され、苦しみから解放された喜びを表すために陽気で、踊り出したくなるようなリズムの曲が演奏されました。まるでお祭りのパレードのようなその行進は沿道の人達も巻き込みながら進んでいきました。まずブラス・バンドが先頭(ファースト・ライン)をその他の参加者は手に手に打楽器などをもちブラス・バンドに続きます、これを「セカンド・ライン」と呼ぶようになり、ブラスのリズムの間に絶妙なシンコペーションを刻むようになります。そうして「セカンド・ライン」といえばこのニュー・オリンズ独特のリズム・スタイルを指すようになりました。
「セカンド・ライン」のリズムは楽器の演奏スタイルにも影響を与えました。
特にピアノではスライド・ピアノや転がるように(ローリング)弾く演奏スタイルが生まれニュー・オリンズ産のR&Bの基本型となっていきます。プロフェッサー・ロングヘア、ドクター・ジョン、アラン・トゥーサン などがその代表とされますが、その後に続く後継者と言われているのが今回紹介するジョン・クレアリーです。
 元々ロンドン生まれの彼は、ニューオリンズ・ピアノの魅力に取り憑かれ17歳にして渡米し、メキメキと腕を上げ、ミュージシャンの間で評価されるようになりました。タジ・マハールのツアーに参加。続いて、ボニー・レイットからも声がかかり、彼女のバンドにも迎え入れられています。すでに5~6枚のソロアルバムをリリース、このアルバムでは2000年のニューオリンズのR&Bの進化型を聞くことができます。ドクター・ジョンにも引けを取らないピアノのテクニックを継承しながらも、新しい世代ならではのファンクっぽさを兼ね備えたイチ押しのミュージシャンです。


(ジョン・クレアリーのLive映像)

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