Artist:ギルバート・オサリバン
Song:What's It All Supposed To Mean?
Album:Piano Foreplay
兎に角、希有のメロディー・メーカーだと思う。あのポール・マッカートニーをして「僕の後に続くのは、エルトン・ジョンか、彼だね。」と言わしめた男。
ひねりの効いたコード進行なのにその上に乗っかるメロディーはいたって自然、その上、胸キュンなんですよ。今回はそんなSSW、ギルバート・オサリバンのお話です。
今日のFace Bookで「クレア」のことを取り上げたら奇しくも彼は現在、日本に来ていてツアーの真っ最中でした。これは何か”Good vibration"を感じます。ちょっとおおげさだけど音楽の神様のお告げでしょう。
本名 レイモンド・エドワード・オサリバン。1946年12月1日アイルランドのウォーターフォードに生まれました。アイルランドにいた時期は短く、幼少の頃、家族と共にイングランドのスウィンドン地方に転居。その後、スィンドン芸術大学に進みバンド活動をおこないます。UKのほとんどの若者がそうだったようにビートルズに影響をうけ曲を書き始める。CBSレコードと契約を果たし数枚のシングルをリリースするもの、鳴かず飛ばす、注目される事は無かった。それでもあきらめずデモ・テープをあちこちに送り続ける。そして彼に興味をもった敏腕プロデューサー
ゴードン・ミルズが彼の人生を良くも、悪くも大きく左右することになります。
当時すでにトム・ジョーンズやエンゲルベルト・フンパーディンクのプロデュースで国際的な成功を収めていたミルズ氏は、ギルバートの才能を見抜き、自身のMAMレーベルより、1970年「Nothing Rhymed」をリリース、本国のラジオで瞬く間に火が付き、全英8位を記録、一躍ポップスターの仲間入りを果たす。
ちなみにGilbert O`Sullivanという名前はヴィクトリア王朝時代に活躍したオペレッタで有名作曲・作詞家コンビGilbert&Sullivanをもじったもの。
1971年、「ヒムセルフ」でアルバム・デビュー。チャップリンをおもわせるその衣装と風貌をゴードン・ミルズは嫌っていたといいますが、彼はそのスタイルを強く主張したと言います。今でもこの風貌が強く印象に残っていますので、彼の方が正しかったのかも知れません。
1972年、「アローン・アゲイン」が発表され全米で6週連続1位(この年の米の年間チャートでも2位)、全英3位を獲得、後にポップス史に残る永遠の名曲となりました。
「アローン・アゲイン」
たった今 もし僕がこういう辛さに慣れていなくて
もっと強い落ち込み方をしていたとしたら
確信するよ 自分で自分に決着をつけようと
近所の塔へと向かい その頂上へ昇り
この身を投げていただろうな
僕みたいにぼろぼろになって
急斜面の危うい道にひとり残された時
どんな感じだった?って
必死になって 誰かれかまわず聞いてまわる
教会でね
誰もが「神よ!」と懺悔をしている場所だから
『彼女(マリア様?)』が『彼(イエス様?)』を
この世に残したこと これは簡単なことじゃない
そんな僕らの心には もう迷いはない
そろそろ うちへ帰ったほうがいいかもね
今までと同じ 独りで帰ろう
・・・またひとりか
・・・代わり映えしないなぁ
ほんの1日前のことなのに
昨日までは やる気もいっぱい 頭も冴えて
派手なくらいに陽気に過ごしてた
だって そんな日々を心待ちにしてたんだから
まるで映画の配役をもらったかのような日々
人生でその配役がまわってきたら
嫌がる人なんているはずない そのくらい楽しかったんだ
なのに打ちのめすように 「現実」があらわれて
力も込めず 軽く触れるような手つきで
僕をずたずたに切り裂いていった
神様なんていやしない そんな疑いの気持ちだけ残して
本当に神がこの世に存在するのなら
なぜ僕を・・・見離すの?
この人生に必要な時の中
ほんとに ほんとうに
これがサダメだとでも言いたげに
また独りになった
ここには まだまだ暖かな心があるだろう?
修復できないくらい壊れてしまったこの場所で
傷ついてしまったら
放り投げられるみたいに置き去りにされてしまったら
どうすればいい?
何をすればいい?
また独りになっちゃった・・・
あーあ またいつものように
だから これまで積み重ねた日々を振り返る
浮かび上がるどんな思い出よりも まず
父が死んで大泣きした時のことを思いだす
あふれる涙をかくそうなんて 少しも思わず
ただだた 泣くだけ泣いたんだ
そして僕の母
65才になったとき 神様に魂の休息を与えられた
僕は母が生涯愛し続けた たった一人の男を
なぜあんな風に 神はこの世から召し取って行ったのか
ずっと理解出来ずにいたんだ
母は深く傷ついた心のまま 新たな出発地点に立たされて
励ましの声を送っても 結局何も語ってはくれなかったから
そうして母がこの世から去ったとき
1日中 泣いて泣いて泣きつづけた
あぁ僕はまた独りだ
いつものように
また 独りだよ
ごく自然な流れにそって
Love Songのような歌詞かと思いきや、とてもとても悲しい歌だったのです。のっけから自殺をほのめかしているのですから・・。あの胸キュンメロディーのおかげでこの曲は多くの人達の共感を生み、考えようによっては救いのないこの詩を深く心に染みる名曲に仕上げました。
同年、「クレア」をリリース。この曲、自分の娘の為に書いた曲とばかり思っていましたが、ゴードン・ミルズの娘さんのことを歌ったようですね。この頃ギルバートは忙しいミルズ氏にかわってこのクレアちゃんのベビーシッターをしていてすごくなついていたようです。「クレア」のプロモーションビデオやジャケットの写真をみるとまるで親子のような感じですから、相当親密な関係だったんだと思います。しかし、このミルズ氏との蜜月期も長くは続きませんでした。4枚目のアルバム「A Stranger in My Own Back Yard 」をリリースした1975年あたりから、音楽的な方向性や、さらにロイヤルティーの分配などをめぐって関係が悪化していき、77年のアルバム「Southpaw 」ミルズ氏との間に決定的な亀裂が生じてしまいます。最終的にはオサリバンがミルズを相手取って訴訟を起こす事態にまで発展してしまい、1984年のオサリバン側の勝訴が確定するまで、落ち着いた環境での音楽活動ができませんでした。(その後ミルズ氏は1986年に51歳で死去。オサリバンに関する、すべての音楽的なソースと権利はオサリバンのものとなりました。)
長い法廷争議の末、オサリバン自身も半ば人間不信に陥っていたこともあり80年代にはほとんど目立った音楽活動を行っていませんでしたが、そんな間でも日本では来生たかおや杉真理などをはじめとする彼のファン達によって、彼の音楽は愛され続けられました。アルバム「Rare Tracks」など日本のみで発売されたものもあります。
1985年あたりからはチャンネル諸島のジャージー島という人里離れた島で暮らしながらマイペースで音楽を作り続けています。先頃、最新作「Gilbertville 」がリリースされたばかりです。
今回のこの曲は2003年にリリースされたアルバム「Piano Foreplay 」に収録されている曲で地味だけど近年の彼の作品中では大好きな1曲です。秋になると何故か無性にこの曲が聞きたくなります。
メロディーメーカーとして希有の才能を持ちながら、エルトン・ジョンのような成功は収められなかった彼ですが、彼を愛してやまなかった日本のファンの為に今夜、何処かで歌ってくれているのかと思うと、結局これが彼の生き方であり、巨大な音楽産業から離れ、自分の本当に歌いたいことだけを歌える環境にいるからこそ、彼の書くメロディーが私達の胸を永遠に「キュン」とさせるのだと思ったりします。
最後に日本への彼からの手紙を紹介しておきます。「今回の日本の地震や津波、そして原子力発電所の問題による惨事に驚いている。家族や友人が安全な場所にいて、これ以上の被害が出ないようにジャージーから祈っている。
ギルバート/ケビン/アウサ/ヘレンマリー/タラより」
("What's It All Supposed To Mean?" by Gilbert O`Sullivan)
("What's In A Kiss?" by Gilbert O`Sullivan)
("Alone Again" by Gilbert O`Sullivan)
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